自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

吉田拓郎 3

2014年01月04日 | うた
そんなつもりはなかったのですが、歌の話題が長引いております。自然好きの人にはまことに恐縮です。

吉田拓郎の歌う「ファイト」は絶品だと思います。全体にこの歌はよくわからんのですが、すごみがあり、わからないなりに、すごいことを歌っているのだと想像させるのが中島みゆきの手法です。見事です。
 その歌詞の中にここだけ、おそらく福岡と思える方言がでてきます。あるいは長崎かもしれんとです。


 薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
 出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
 うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
 あんたに送るけん持っとってよ にじんだ文字 東京行き


この歌詞のおそろしさ。それは東京弁では表現できないものです。中島みゆきはその効果を十分に計算しています。これが東北出身者で、盛岡あたりで家庭に複雑な事情があったとして、こういう凄みはでません。

 そこでです。この部分を歌うときの拓郎がぞっとするほどリアリティがあるのです。それは私が吉田拓郎をいいかげんな奴だと思うことと関係しています。私は鳥取の出身で、父親は大分なので、西日本の言葉の雰囲気がわかります。拓郎が広島出身者だということも知っています。拓郎が「あんたに送るけん」というとき、それは彼の腹の底から語る響きがあります。
 「結婚しようよ」で拓郎は都会育ちの軽い男を演じました。髪が伸びたら結婚しよう -- 東京の若者はあの歌を聴いて、「なんだか軽い感じでいいな。結婚は自分たちが好きだからしていいんだ」と、その気軽さを歌で表現した新鮮な感覚を受け入れたのでした。しかし終戦直後の広島に育った拓郎という背景を知る私には、あの歌を歌う拓郎には嘘が見えてしまったのです。あれは本心ではなく、ただ売れるために作ったのだと。
 東京の人にはわからないことですが、母語でないことばを使うときの恥ずかしさというものがあります。それは自分の心から湧いてでる言葉ではなく、それを一度翻訳するのですが、どうもそれはぴったりではない。旧友にはそういう言葉を使う自分を絶対見られたくないという感覚があります。
 拓郎のしゃべりは魅力的だし、半世紀東京に暮らすのだから、完全に東京弁を使えるのはよくわかるが、それでもなお彼の心の中には
「わしの歌ぁ聞いたかのぉ。よかろうが、そらぁ年季が入っとるけぇのぉ」
という広島弁があるのに、それを
「あのサ、ボクのうた聞いた?いいと思わない?だってサ、年季が入ってるモン」
と言い換えて気取っているのがわかるのです。
借り物の言葉で本当の芸術ができるか。
それをしないあいつはいいかげんだ。そういう思いが私にはあるのです。

以上、理屈っぽい吉田拓郎講座でした。

コメント
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