私はこのブログに「ただちに人体に影響がない」といった日本政府と保安院の発言を批判した。そのころ、甘く根拠のない楽観論で定めて立ち退き範囲はだんだん広がって、その頃「アメリカの基準はおおげさだ」という意味の発言をしていた範囲にまで拡大した。
さきほどのニュースでは母乳から放射性物質が検出されたという。それでもまだ「害はないから安心してもらっていい」という意味の発言をしている。どうして安心ができるだろうか。あのとき問題がないといわれたから警戒しなかったから体内にとりこまれたのは動かないところであろう。これが赤ん坊の体内に入り、将来、害がないとどうしていえるだろうか。害があったとき、「あのときの摂取との因果関係はわからない」とでもいいのがれるのだろうか。なぜあとで「警戒しすぎだった」といってもよいから可能な限りの安全策をとらないのか。
今回母乳から検出という事実がわかったことについて、「ただちに影響がないとした判断はまちがっていた。今後はもっと慎重に警戒を強める」というべきではないか。
東大の先生が原発対策の委員を辞めたらしいが、そういう責任感のある人はもともとあまり委員にされないのだ。「国策」をとるとき、役人はいいかげんな「大丈夫論」をいう御用学者を委員にする。役人は自分たちが責任をとらなくていいように責任は委員会に「振る」が、しかし自分たちが任命する以上、危険な発言をする学者は避ける。まず自分たちに危険がない人選をし、危険があったとしても、「私たちでなく委員会が出した結論ですから」と逃げられるようにしておく。野生動物でも同じような事情があり、私にとってはわりあい大きな問題だが、でも人間の健康という切実な問題にくらべれば、はるかに深刻さはうすい。今回のことはひどいと思う。
平和ボケの時代が半世紀続くと、役人はここまでずる賢くなるのかと悲観的になる。
さきほどのニュースでは母乳から放射性物質が検出されたという。それでもまだ「害はないから安心してもらっていい」という意味の発言をしている。どうして安心ができるだろうか。あのとき問題がないといわれたから警戒しなかったから体内にとりこまれたのは動かないところであろう。これが赤ん坊の体内に入り、将来、害がないとどうしていえるだろうか。害があったとき、「あのときの摂取との因果関係はわからない」とでもいいのがれるのだろうか。なぜあとで「警戒しすぎだった」といってもよいから可能な限りの安全策をとらないのか。
今回母乳から検出という事実がわかったことについて、「ただちに影響がないとした判断はまちがっていた。今後はもっと慎重に警戒を強める」というべきではないか。
東大の先生が原発対策の委員を辞めたらしいが、そういう責任感のある人はもともとあまり委員にされないのだ。「国策」をとるとき、役人はいいかげんな「大丈夫論」をいう御用学者を委員にする。役人は自分たちが責任をとらなくていいように責任は委員会に「振る」が、しかし自分たちが任命する以上、危険な発言をする学者は避ける。まず自分たちに危険がない人選をし、危険があったとしても、「私たちでなく委員会が出した結論ですから」と逃げられるようにしておく。野生動物でも同じような事情があり、私にとってはわりあい大きな問題だが、でも人間の健康という切実な問題にくらべれば、はるかに深刻さはうすい。今回のことはひどいと思う。
平和ボケの時代が半世紀続くと、役人はここまでずる賢くなるのかと悲観的になる。