富山の市民病院での呼吸器外し、安楽死疑惑事件、いかが思われますか。当の外科部長は尊厳死と譲らなかったそうです、院長の「後出し」コメントによると。こういう後出しの正義漢ぶりは、よくあるパターンですが、小狡い印象を拭えませんね、何故その時点で止めなかったのかという責任を逃れようとする意思が見え見えですから。ま、ここではさて措いて。安楽死と尊厳死とどう違うのか、単に定義の話ですが、ものの本によるとこうです、安楽死は医者が医療行為で積極的に患者を死なせるもの、尊厳死は自らの意思で延命処置を拒否するもの。実際には、安楽死については判例があって、いくつかの要件(条件)を備えれば違法性が阻却される、つまり殺人罪には問われないという判断が出ています。もちろん、だからといってこういう処置が正しいものと認知されているのでは決してありませんし、なにより脳死に関わる臓器移植法の如く法律が整備されているのでもありません。極めて法的に(強調しますが、あくまで法的にの話です)不安定な状態です。から、この外科部長の行為は軽率であった誹りは免れますまい。かたや、尊厳死は医療を拒否するということですから、簡単なことのように思えますが、いやいや、本人が仮にずっとその意志が強くても、周りが許さないことがほとんどでしょうし、ましてや死の迫った重篤な状態にある本人が明確に意思表示できると考える方が不自然で、勢い判断は家族が下すようになります。だから、元気なうちにそう言う意思表示を文章で残して置けという考えがあって、リビング・ウィルという呼び名でいわば遺言書のように書き留めておく人もいるようです。でも、くどいですが、治療を施すか否かを決めるのは本人でなく家族である場合がほとんどですし、実際現場の医者も家族の意志に反するような行為はできはしません。尊厳死というのは、概念としてはなるほどねと納得はできますが、実際の運用には大きな壁がそびえています、実用性に乏しいと現時点では断ぜざるを得ますまい。今回のケースは本人の意思を確信できない状況だそうですから、とても尊厳死などと強弁はできません。加えて、未だ尊厳死に対しては法律はおろか判例もないのではないでしょうか。で、安楽死ととらえるについてはどうかとなり、判例に照合して判断されるという手順です。警察の事情聴取はその確認でしょうね。この医者は信念で行なったと言っているようですが、これも軽率です。医療行為は一から十まで信頼関係で成立します。いかに医者がよかれと為した行為でも、受ける側が異を唱えればそれは不適当なものであったという判断がなされていくのです。いい結果が出れば誰も文句は言われないでしょう。そうでないからクレームが出るのです。火のないところには煙は立たないのです。つまり、問題の発端は、それがどんな問題であれ、医者の行為、言動、さらには独善といったところにあるのでしょうね。難しい問題だと棚上げするのではなく、医者は軽率な行動を慎めという結論ではありますまいか。生殺与奪の権利など医者にはもとよりないのですから。思い違いをするな、ですか。ううむ、今日は些かラジカル!
話は変わって、西武のバッテリーいいですねぇ。湧井に炭谷、19歳と18際ですよ。それが、中村だの清原だのに堂々と渡り合うのです。胸がすきますねぇ。あのキャッチャー凄い奴なんでしょうね、使う伊東監督も偉いですが、この人が西武黄金時代のレギュラーキャッチャーだったというところにまた炭谷の凄さが問わず語りに浮かんでいます。どうかこのまま使ってやって欲しいと思います。そう思いますよねぇ?
話は変わって、西武のバッテリーいいですねぇ。湧井に炭谷、19歳と18際ですよ。それが、中村だの清原だのに堂々と渡り合うのです。胸がすきますねぇ。あのキャッチャー凄い奴なんでしょうね、使う伊東監督も偉いですが、この人が西武黄金時代のレギュラーキャッチャーだったというところにまた炭谷の凄さが問わず語りに浮かんでいます。どうかこのまま使ってやって欲しいと思います。そう思いますよねぇ?