柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

信仰

2015-06-13 08:23:34 | Weblog
飲酒運転事故が後を絶ちません。TVは頻りに訴えます、どうしてなくならない?あれだけ被害者が出て、結果の悲惨さや罪の深さを十分に皆が知っているのに、どうしてなくならない?データを示してます、道交法による罰則が厳しくなってそれに連れて大きく減少したがしかし、なくならないと。飲酒運転で挙げられると職を失う人達(公務員や教員、大手企業)がまず止めて、罰金がべらぼうになったことで常識人は止めて、でもそこまでです。懲罰での抑止力の限界です。死刑が殺人事件の抑止力になってない(だから死刑制度を廃止しろというのがあちら側の人の理屈の一つですが)ことと通底しますが、こっちは理由が少し違いますか。交通事故の罰則はきつくなってますが、今までの判例に見るように実は甘い。抜け道だらけと言うか、弁護士の屁理屈が全て通ってしまうザル法です。覚えておいででしょう、福知山かどこかで通学中の子供を撥ね殺した事件、無免許運転なのに厳罰じゃなかったですよ。それまで長く運転できていたことは危険運転する者には該当しないとの、何とも三百代言そのものの、これ以上の屁理屈はないだろうという与太が裁判所で通るんです。所詮法律人達の頭の中は同じということです、常識社会通念より法律の逐語訳至上です。だからナメてる。少々飲んだって何にも起こらなければ、途中で止められなければ(検問に当たらなければ)咎めなしですから。捕まっても死刑になるわけじゃないし。飲酒運転自体を罰せられるんじゃなくて、捕まったら怒られるだけ。捕まらなければいいんですから。なくなりはしません。自制のできるできぬは結果論です、要は性格性質です。社会人、社会の一構成員としての自覚と言うべきか。雑多さこそが社会です。これもゼロ信仰です。
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