水俣病の慰霊祭で鳩山さんが謝罪しました。政治決着の後のパフォーマンスです。というか、逆算しての政治決着だったわけですが。保健所に届けられて以来か公認されて以来かは聞き逃しましたが54年だそうです。関口宏は溜息ついて「長すぎるわね」と言います。確かに長いですね。でも結果から単純に判断してはならぬ事柄ではあります。こうなるんなら、結局謝るんならもっと早くに対応しろよ、という論なのですが、54年という長い時間にちゃんと裁判という手続きを経てきているのです。国はその裁定に従って応じてきています。それが被害者(この定義の決め方にこれだけの長い時間がかかったとも言い換えられるのでしょうが)全員の救済に至らなかったからこその政治決着なのです。判決はこうでしたが、政府としてあなた方に補償します、そして(今回は)首相が謝罪します、という手続きです。選挙前のパフォーマンス、でしょう。外野から見れば今更・・の感が強いです。でも当事者の方々にとればやっとのこと、長年の差別、放置に対する恨みはさぞやと思いますし、因果がはっきりと証明されている以上「被害者意識」が高まりこそすれ収まるはずのないこともよく理解します。ではなぜ国は、つまり政府自民党はずっと謝罪してこなかったのか。裁判で判決が出てその通りに補償等対応してきたのであるから、無策なり無慈悲なりの誹りを受けることはないという表向きの理由もありましょうし、対応の整合性、政府として同じ態度をとり続けるという必要もあったでしょう。ですから前例を破るには前政権の縛りから放たれるという場面転換が必要なわけです、思い返せば薬剤エイズ問題をひっくり返したのは、その昔の細川政権か村山政権下の菅厚生大臣でしたね、この人も謝罪してました。櫻井よしこが血液学のドンを追い回していたのは記憶に新しいです。もっとも菅さんは調子に乗ってその後のカイワレ大根事件ではケチ付けましたが。小泉さんも謝ってました、ハンセン病患者に対する隔離差別政策が間違いだったと。B型肝炎訴訟も、法律ができる形で決着しました。自民党が強い時代にはありえないことであったわけです(小泉さんは昔ながらの自民党気質ではないですから)。簡単に言えば、公害をはじめとして、ハンセン病患者の隔離などの公衆衛生的な問題はすべて政府の施策の結果であるからですね。エイズの問題も、血液製剤のチェック不足の問題ですし、B型肝炎問題も手術時、特に分娩時の止血時に用いる止血製剤(血液製剤です)のチェック不足、さらには日本中どこででも行われていたツベルクリン検査やらインフルエンザ、日本脳炎やらの予防接種が原因だ、使い回しだったでしょう?覚えておいででしょう、学校でずらりと並んで次々に注射されていく、何人かが一本の注射器で射たれたでしょう?あれで感染していったという理屈なんです。血液感染する病気であることが明らかになってから、今は日本中どこでも注射器は一人一本使い捨てです(そうでない怖い医院病院もまだあるやには聞いていますが)。昔の病院は、シュンシュン湯気を立てている「消毒器」がどこでもあって看護婦さんが慣れた手つきで長いピンセットで熱消毒された注射器をつまみあげてさらに針をクイクイっと装着する、そんな場面を「痛いだろうな」と腕まくって待ちながら見つめていたご経験のおありの方多いでしょう。あれで十分な消毒とされていたのです。でも実はあれではB型もC型も肝炎ビールスは死ななかったのです。でも当時はそんなこと分からなかった。それ以上の消毒手法が、もちろん学会や研究レベルでは分かっていたにせよ、世の中になかったのです。全国端々の第一線の診療所にはなかったのです。それを現代の知識や文明(医療機器の進歩)でもって遡って断罪するは無理のある話なんです。それを国の施策の誤りと糾弾されても、はいそうですかとはならないわけです。公害はもう一つ別の要素が加わりましょう。古くは足尾銅山に始まり、水俣病、イタイイタイ病、光化学スモッグ等々ですが、背景は国の産業の発展です、いわば国益です。水俣病もチッソ会社が当時の産業発展に必要なものを生み出す過程での副反応とも捉えられます。経済発展に国を向けていたのが自民党であれば、言葉は適当ではないかもしれませんが少々の犠牲は已む無いことという考え方は確かにあったでしょう。裁判して、ちゃんと手続きを踏んで粛々と解決せよという「手続き」は間違いじゃなかったわけですね。原爆被害者問題もそうでしたが、補償を受けられない被害者が高齢化して可哀想だという感情論に押し切られての政治決着です。これはどのケースも同じ道筋です。このタイミングでしか謝れないこともあるのです。鳩山さんが偉いのではなく高潔なのでもなく、こういう時にこの地位にいたというだけのことと思います。被害者の方々には長い苦しみであられたことであり、同じ日本に同じ時代を生きてきて、ただどこに住んでいたか何を食べていたかだけでこれだけの差別を被らねばならぬ理不尽の思いは到底消せぬことでありましょうが、しかしそれだけの差でもあるわけです。そこに住んでおられた不運。そんなことで済ますな!というお叱りは承知の上ですが、人生の運不運とはこういうことなんだろうと強く腑に落ちる思いでいます。当地にもやがて原発が建設されましょう、ドカンとなればそれまでです。運不運とはこういうことなんでしょう。そう思うことです。
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