昨日の礼拝で次の聖書の言葉を目にしたとき、自爆を選んだサイードの死の意味を再び考えさせられた。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命にいたる」
ヨハネによる福音者12:24、25
サイードは自分を「一粒の麦」と信じていたのだろう。
しかし、他人の死を呼び込む死が、実を結ぶと本当に信じていたのだろうか?悲しい、やるせない、でも許容できない死ではないか・・・
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命にいたる」
ヨハネによる福音者12:24、25
サイードは自分を「一粒の麦」と信じていたのだろう。
しかし、他人の死を呼び込む死が、実を結ぶと本当に信じていたのだろうか?悲しい、やるせない、でも許容できない死ではないか・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます