不思議なのですが、今回の訪問で初めて東松島でも、山元町でも、自然と皆さんが口を開いて語って下さいました。
その内容は、いつも冗談を飛ばして、笑顔でワイワイと賑やかな普段の様子からは想像もつかないような重いものでした。「津波の被災の当事者」なんだということを、改めて思い知らされました。
●Aさん(60代男性)の場合(山元町)
車で逃げていたが、津波に呑まれてしまった。このままではと思い、肘で思い切りドアの窓ガラスを叩いたら、三度目で何とか割れたので脱出。ちょうど直径7,8センチの立木にぶつかったのでそれに必死でつかまった。約一時間つかまっていた。
(Aさんは、ほぼ毎日センターに来て、その仕事をスタッフのように手伝っています。)
●Bさん(30代女性・保母)の場合(山元町)
勤め先から子どもを迎えに車に乗ろうとしたら、前方が黒い雲覆われていた。ずいぶん黒い雲だなあと思っていたが、それは津波だった。急いで車を走らせたが、地面がどんどん目の前でひび割れたり盛り上がったりするので、怖かった。でも、思い切りアクセルを踏んでがたんがたんと揺れながら乗り越えていった。子どもは山の上の祖母の家に避難して無事だった。
センターのすぐそばの保母さんは、背中に一人おんぶして、両手に一人ずつ手をつないで逃げようとしたが、津波の勢いで両手から子ども達が離れてしまった。助かったのはおんぶした子どもだけだった。その方は自責の念から、辞職されたという・・・その保育園ではたくさんの子どもが犠牲になったと。
(今は仮設で暮らし、狭くて息が詰まるというBさん。休職中です。)
●Cさん(60代女性)の場合(東松島)
地震のあと、逃げたかったが孫が幼稚園から帰ってくるのでずっとそれを待っていた。やっと、園児達は避難したという知らせを聞いて逃げ出したが、もうその時は津波が来ていた。あちこちから「助けて~」という声が聞こえてきたが、我が身も危ない状況の中では何とも出来なかった。
幸い長靴を履いて、手袋していたので痛さを感じずにどんどん前に進めた。山に登って何とか助かった。
(近々元の場所に再建した家に戻るそうですが、実は怖い、海を見るのも怖いそうです。)
●Dさん(60代女性)の場合(東松島)
津波が来るというので、家にいる足の不自由な義母を助けに行かなくてはと思っていたら、すでに高台に避難していたのを知ってビックリした。どうやって?と思っていたら、なんと自力で、杖一本で避難してきたという。あの足で!と、いざというときの底力に舌を巻いた。
この義母は、息子(Dさんの夫)と普段から仲が悪く喧嘩ばかりしていたそうだ。しかし、息子とは連絡が取れず、もう死んだかと思っていたが、一か月後に元気で生きていたと分かったとき、大声で泣いたそうだ。やはり、親子だなあと。その後、二人の仲は改善されて、義母の病院の送迎をしたりしたそうだ。しかし、お義母さんはまもなく亡くなった・・・
( あちこち回ってやっとこの仮設に来て落ち着いたけど、皆さん同じ町内で固まっていて・・・と話すDさん。仮設内での悩みもありそうです。)