昨日は教会の読書会
「反知性主義」は少しお休みして、遠藤周作の「沈黙」を取り上げました。スコセッシ監督の映画を見た人、原作本を読んだ人、両方の人と様々でしたが、男性4人女性5人が参加。
最初に一人ずつ感想を聞きました。
Aさん(男性)・・・色々な角度から考えてみたい作品。転んだ人も殉教した人も、どちらも否定できないと思った。聖書が奪われても、信仰が保てるものなのだろうかと思った。
Bさん(男性)・・・幕府とキリスト教は本当に相容れないものだったのか。日本文化とキリスト教信仰はどうしたら通じるのか。うまく融合させるにはどうしたらいいのか。日本泥沼論は今に通じる問題として考えたい。
Cさん(男性)・・・昔読んで忘れていたのでまた読んだが、感想は同じ。 教会に忠誠を尽くすことが信仰?キリスト教の神髄をついてるといえるのか。小説だなあ、言い逃れが多いなあと思った、泥沼論に。 神の前の責任が感じられない。
Dさん(女性)・・・信徒はひどい拷問を受けているとき、イエスから特別な力を受けているのではないかと思った。
Eさん(女性)・・・ロドリゴは死んで棺桶に入れられたとき、小さな十字架を持っていた。最後までクリスチャンとして歩んだのでは。井上筑後守は、ポジションを得るためにやっていたのだろう。 転んだ人も殉教した人も天国に行ったと思う。
Fさん(女性)・・・キリスト教が日本で変わったというが、それはどこの国でも変えるのではないだろうか。
Gさん(女性)・・・グサッと来たのは泥沼論。真実をついてるし、実感する。今の私たちも心しないといけない。教えを歪めている可能性を否定できない。日本のキリスト教は居心地が良い。
皆さんの感想を聞いていたら私のを話す時間がなくなってきて、私はあちこちで書かれている感想・論文の紹介をしました。
雑誌ミニストリー、佐藤優著「悪魔の勉強術」の中の「遠藤周作『沈黙』を読む」などです。しかし、一番すごいと思ったのは小畑進さんの「小説『沈黙』論」だったので、是非それを読んで欲しいと話しました。(実はCさんはその論文が載っている本を持参されていました。同じ大学の先生ですもんね) これはすごいと思いました。遠藤に真っ向から真剣に向かっています!
ネットで検索すれば簡単に入手出来ます。
ロドリゴの師であったフェレイラ、棄教してからは沢野忠庵と名乗らされ、キリスト者を棄教させる手伝いをし、「顕偽録」を書いた人物についても詳しく論じられています。小畑は、『沈黙』の主題は、この「顕偽録」中のフェレイラの苦悶に尽きていると書いています。その苦悶とは何でしょう。
「鬼利志端経文ニ、其国ノ風俗ヲ見、吾法ニ思ツカザル国ヲ去テ、信ズル国ニ弘ムベキト見エタリ。然ニ法ニ背キ宗旨ヲ立ルコト、其身ノ殺生ニアラズヤ」
そして次の三つの観点から『沈黙』の問題点を探っています。
一、神への忠誠か隣人への愛情か
二、強者に対する弱者の救い如何
三、日本の体質は基督教に向くか
結論から言えば、小畑は全ての問題について、聖書の言葉を基本として納得のいく言葉で応えてくれます。日本泥沼論にも。興味ある方はぜひダウンロードして読んでみて下さい。
ところが、ところがです!
夜寝る前に、ユウチューブで検索していたら、遠藤が沈黙を書いた動機などについて講演しているのを見つけてしまいました!
『私が書いたのはあくまで小説なんですヨ。大説じゃあありません。けしからんといわれればそうでしょう。でも、小説なんですから」と、開き直って?カトリックの偉い人や学者らの批判を切り捨てている?ばかりか、「私はクリスチャンの感想はいりません、信者でない人、普通の人の感想を聞きたい」と言っていました。批判もあるけど、喜んでくれる人もいるよと、あくまで軽い調子で会場を笑いの渦に巻き込みながら。
なんかなあ~、最後は脱力感に襲われた一日でした。