拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

ドジョウ事件とトンカツ事件

2021-06-25 12:24:41 | グルメ


腸内発酵食品のマイ・ブームが続いていて、ゴボウが良いと聞いて買ってきた。告白する。私がゴボウを調理するのは生涯初めてである。だから、皮のむき方も知らなかった。なになに?ゴボウの皮は包丁の背でざっくり落とせば良い?皮のところに旨みも栄養もあるので、泥を落とす程度で良い?なるほど。おおっ、なんか香ってきた。ゴボウってこんなに香り野菜だったのか。すっかりゴボウのファンである。こういう味が分かるようになって、ちょっと大人になった気分(あんたいくつ?)。さて、ゴボウと言えば柳川鍋。ここから昔話の始まり。まだ横浜市緑区に住んでいた頃、父方の祖母が山梨から遊びに出て来た。瓶に生きたどじょうをたくさん詰めて来た。そして夕方になった。キッチンから「まさしっ」という母の怒号。シンクにドジョウが一匹落ちていて、母は、それを私の仕業だと思ったのである。すると祖母が、「あ、それ、おらが持ってきただよ」。祖母がドジョウ瓶の水の取り替えか何かをしたときに一匹こぼれたらしい。母の動転したおつむはなかなか元に戻らず、普通なら、姑が原因だと分かれば「あ、お母さんでしたか、すみません、大声を出したりして。ちょっとびっくりしたものだから」くらい言いそうなところなのに、しばらくワナワナして口がきけなかった(あるいは、きまりが悪かったのだろうか)。その後、祖母がドジョウを沸騰した鍋に投げ込むときは母親は立ち会ったらしい。「どじょうが1メートル跳ねた」という感想を言っていた。そういう「事件」の印象が強かったもんだから、柳川鍋の味自体はまったく記憶にない。考えてみれば、祖母はものすごいご馳走を持参してくれたわけで、さぞや喜ばれると思っていたろうに、息子の嫁がそんな態度だったから落胆したのかもしれない。父方の祖母の話をしたので、母方の祖母のことも。母は、家をしばらく留守にするときは、普段は遠くに住んでいた自分の母親(私から見れば母方の祖母)に子供(私と妹)の世話を頼んでいた。そのときのことである。見たこともない料理を祖母が作ってくれた。私は「おばあちゃん、これ、ホントに美味しい。ボク、こんなに美味しいもの食べたことない」と言ったそうだ。それはトンカツであった。祖母は、孫がトンカツすら食べさせてもらってないことに驚き、母を叱ったそうである。後から考えると、母は肉がまるでだめな人で、後年、私が社会人になってから久しぶりに実家に戻ったとき、実家の家族に得意の料理を振る舞ってやろう、で、母が「肉が食べられるようになった」と聞いていたので、よし、じゃあステーキを焼いてやろう、と思ってでっかいヤツをどーんと焼いて母の前に並べてやった。母は硬直してしばらく動けなかった。まるで、私が親を虐めたみたいである。なんだ、全然食べられるようになってないじゃん。そんな具合であったからトンカツを作れるはずはなかったのである。唯一、カレーを作るときだけ細切れを入れていた。鍋の中をかき回してようやく見つかる程度の少量である。肉だけかと言うとさにあらず。これは最近、と言っても母がボケる前、今の施設に入る前のことだが、母のところにいく道すがら生のサンマを安く売ってたので、珍しく母にお土産と思い、何匹か買って持って行った。すると、「お、お前、これをどうするんだ?」「焼くに決まってるじゃん」「いらない」「え?お母さん、サンマ焼いたことないの?」「ない」。そう言えば、実家にいた頃、母の作る魚料理はカレイの煮付けのみだった。そんな具合だったから、私は成人して家を出るまでは、ほとんどヴェジタリアンだった(で、健康に育ったんだから、文句を言う筋合いではないが)。さて、現在の私の食卓の話に戻る。麦ご飯もいいと言うので実践中である。レシピ通り、米2:麦1の割合で炊いているのだが、麦(線が入っている)があまり目立たない。



母は、麦ご飯は得意(?)だったようで、よく食べさせられた。そのときの方が、麦の「線」の割合が多かったと思う。