麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第11回)

2006-04-15 22:21:22 | Weblog
急にあれですが、私には本当に、とくに生きている理由もないな、とつくづく思います。
なによりも、私には、四十六歳にして子供がいない。
世界が舞台なら、誰もが自分の遺伝子という役者を受け継ぎ、受け渡し、劇に参加していくわけですが、子供がいない人間というのは、「自分の代だけで、後の舞台には参加しない」ということであり、遺伝子的には自殺することだと思います。
だから、「生活と意見」といっても、私には本来、世の中に対しては、まったく意見などないのです。なぜなら、未来には参加しないので、未来などどうなろうと関係ないからです。(生まれてこない私の子供は、人類に貢献することもない代わりに、迷惑をかけることもありません)。実際のところ、政治にも経済にも、まったく興味がありません。これまで新聞を取ったこともありません。
こんなふうに、子供を持たないだろうな、とは中学のころ予感がありました。
もちろん、できてもおかしくないときもあったのですが、できればほしくないと思っていました。
それも簡単な理由で、私はこの資本主義社会では、とても不利な階層に生まれました。自分では損をしたと思っています。「努力すれば何でもできる」と言うのは簡単ですが、やはり、生まれたところの貧しさは、なにをするにも足かせになるのです。こんな不公平なところに生まれてきて、私は本当にいやでした。
そうして自分自身も現在、その生まれた階層のなお下のほうにいるわけですから、こんなところからスタートするとしたら、子供がかわいそうです。しかも、私が父親では、私は結局なにもやり遂げられなかったので、「人生はすばらしい」と、子供に言ってやることはできません。これでは、最悪でしょう。
これは、もう否定的見解というよりは、笑えるくらいの事実です。
資本をもっている方は、もちろん遺伝子を残すべきだし、その遺伝子で未来に参加するのだから、参加者としてこれから世の中がどうなるのかを考えるのは義務です。
しかし、私は考えません。
ただ、後ろ向きに、自分の過去のことだけを見つめ、一代限りの残り時間をやり過ごしたいと思います。

――要するに、今日の気分は最悪です。
ごめんなさい。
先日、ひとつ年上の知り合いが死んだと聞きました。最後は飯も食わず、死んで2日後に見つかったそうです。才能のあるライターで、業界の先輩でした。おしゃれで、無国籍風で、いつも飄々としていました。「プロのライターとはこんな感じか」とあこがれました。磨けば、私の三千倍くらいよいものが書けたでしょう。磨かなくても千倍はよかったから。
彼にも子供はありませんでした。
部屋で、故意に餓死していたという知り合いは、彼で二人目です。
神とかそういうものは、絶対にいない、と私は思います。
どういうおとぎ話をつくって自分に言い聞かせようが、
それはただ、そのひとが、自分が生きやすいように理屈と物語をでっち上げているだけで、この世界は考えうる限り最悪の世界、それ以外、今日の私には何も見えません。
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