麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第122回}

2008-06-02 00:17:35 | Weblog
6月2日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

木曜日から体調をくずして、休んでいました。
天候の落差に老体がついていかないようです。今年はちょっとひどいですね。



「消え去ったアルベルチーヌ」(光文社文庫)は、何週間か前に、出てすぐ買ったのですが、訳者の前書きだけを読んで中味は読んでいません。なにか、この翻訳のもとになったテキストは、学問的には意味があるものらしいのですが、「失われた時~」のたんなる読者である私には、あまり関係のないもののような気がしたからです。そのうち気分が変わって読んだら、またそれについてなにか書きます。が、私に言えるのは、やはり井上訳でも鈴木訳でもどちらでもいいから、とりあえず全訳を順番どおり読むのが第一ということでしょうか。以前、「第六編は、第五編とともに独立した恋愛小説になっているから読んでみては」と書きましたが、現時点ではその言葉は撤回したいという感じです。

コミック版「失われた時~」の第二巻「花咲く乙女たちの陰に」が出ました。まだ、立ち読みすらしていませんが、舞台になるバルベックグランドホテルがどんなふうに描かれているのか楽しみなところです。



今日なぜか思い出したのは、「風景をまきとる人」を書き進めているとき、そのつど仮のタイトルをいろいろ決めていたことです。以前書いたように、はじめは、「こころ」というのが仮のタイトルで、冒頭は「僕たちは彼のことを、いつも「センセー」と呼んでいた。」というものでした。

おそらくこの時点では、実際に出来上がったものとは違い、油尾と丸山と久美の三角関係が物語の中心になると考えていたような気がします。つぎに、シーンをかなり書き溜めてからつけた仮タイトルは「やりすぎ」というものでした。いままでどこでもタイトルになったことのない日常語で、目をそむけたくなるほど下世話なタイトル。それが理想だったからです。

このあたりまでは、油尾の語る「風景をまきとる人」のおとぎ話というか世界観は、この小説ではまったく使わないつもりでした。結局、「風景を~」になったのは、「これは自分にとって生涯で一冊だけ作れる本かもしれない。もう機会はないかもしれない。一冊しかできないのなら、『風景をまきとる人』のイメージは絶対に提出しておきたい」と考えるようになったからです。そこから主軸がずれてきました。でも、そうなってからのほうが、圧倒的にやる気が出ました。

途中、すごく悩んだのは、各章をそれぞれ別の文体で書いてみたいという野望をなかなか捨てられなかったことです。このブログでは、あまり触れていませんが、私はマニアというほどではないけどジョイスのファンで(どの程度かといえば、70年代に出たフィネガンズウェイクの部分訳「フィネガン徹夜祭」(都市出版社)を古本で1万4000円だか5000円だかで買うのになんの躊躇もしないが、途中まで出た岩波文庫版「ユリシーズ」をどうしても手に入れて読みたいというほどではない、という程度)若いときは、いろいろ文体を模倣したものを書きなぐっていたという経験があります。だから、「ユリシーズ」のように、各章で文体を変えてみたい、と考えたのです。

たとえば、「風景を~」の第一章は、漱石の「こころ」のパロディにし、飲み会の章は「ユリシーズ」の「キルケー」のように戯曲の形式で書く、また丸山と久美のベッドシーンの章は、プラトンの対話編のパロディのように書きたい、最後の章は「ペネロペイア」のように「意識の流れ」で書きたい、などです。もちろん、そのように書く才能も時間もなかったことは、結局私にとってはよかったのでしょう。もし、そんな試みをしていたら、いまだに一章も書きあげられなかったに違いないので。



では、また来週。
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