鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

俳句の世界の舞台裏から見えてくること

2009-04-29 | Weblog
 数年前のベスト・エッセイ集を読んでいたら、評論家の塩田丸男氏が面白いことを書いていた。塩田氏が12人から成る某新聞社の俳句の選者を務めていた時に、事務局があらかじめ選んだ800句のうちから、大賞1句、秀句3句、佳句20句を選ぶことになり、選者が天地人の3句プラス30句の33句を選び、天には5点、地には3点、人には2点、その他の30句には1点をつけ、集計して大賞等を決める仕組みとなっていた。
 で、塩田氏が投票して、結果を知らされたところ、「天」句に選んだ句が大賞はもちろん、佳句の20点にも選ばれていなかったので、愕然とした、という。塩田氏自身俳句の専門家ではないと自認していたものの、他の11人の選者とあまりにも違うということに驚き、俳句を「見る目」を改めて学びたいということで事務局に大賞の句に天の5点を与えた選者を教えてほしいと申し入れたら、「大賞の句に天をつけた選者の方は1人もいらっしゃいません」と意外な言葉が返ってきた、という。
 選者が「天」をつけた句はバラバラで、秀句のうち上位2句にも「天」をつけた選者はいない、という。800句もあればバラけるのは当然で、事務局が紹介してくれた別の選者が説明してくれたところによると、「天」をつくような句は人間で言えばユニークで、強烈な個性を持った人物のようなもの、その人間に取りつかれた人は絶対的に支持し、信奉してしまうが、そうでない人は好きになるどころか、嫌い、憎み、反発してしまう。だから、「天」がつくような句はポツンと「天」がつくが、あとは全然点が入らない。逆に八方美人的な句は「天」には選ばれないが、「地」以下の点を稼いで総合点では上にいってしまう、という。
 そういえば、NHK衛星テレビで句会を放送しているが、時にバラバラの点がつくことがよくあり、困った司会が進行役の俳句家に助けを求めるシーンによくお目にかかるが、最後は権威のある俳句家が選ぶしかないのだろう。巷にある句会をいかに切り盛りしていくかは中心の俳句家にだれを持ってくるかにかかっている、とはよく聞く話である。
 松尾芭蕉の名句とされる「古池や 蛙飛び込む 水の音」にしても作られた江戸時代当時に最初にそれを聞いた人は決していいと思わなかったことだろう。何回も聞いているうちに「いい句だな」と思えてくるのが大方の俳句に対する感覚だろう。俗に俳句人口1000万人といわれるが、その舞台裏というのはこんなものなのかもしれない。
 しかし、考えてみれば俳句に限らず、絵画、書、音楽の世界も似たところがあるのだろう。あまりにも独創的、個性的なものは万人に受け入れられなくて、その時にいいとされるのはどこかで見たとか、聞いたような親しみやすい作品が平均点を高くとって評価されるも。天才的なものはよほど突出した能力のある人が認めて主張してくれない限り、世に出ることすら難しいことになる。
 ことは芸術のことに限らず、人間の評価もそんなことがありはしないか、という気がしてくる。平均点の高い生徒が筆記試験に通るといういまの大学入試制度も「天」の要素を持った学生が浮かばれない制度である。
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