鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

人間国宝と直に話せて感激の埼玉県小川町「和紙の里」紀行

2009-06-29 | Weblog
 28日は春夏恒例の中学時代の東京組4人による遠足で、埼玉県小川町にでかけた。今回の幹事がテレビを見ていて、和紙のふるさと、小川町に行くことを思い付いた、という。溝の口から渋谷、池袋と行き、急行で70分かけて小川町に着いた。駅近くの観光案内所で鄙びた街に似合わぬ立派な地図を手に入れ、放蝶会が行われているという仙元山見晴らしの丘公園を目指して国道を歩き出した。手頃な乗り物も見当たらなったので、歩くしかなかったのだ。
 途中、標識に「和紙の里 八宮神社」とあったので、その方向に進むと1833年に創建された神社があった。本殿の裏手に回ると、中国風の仙人が居並ぶ立体の彫刻が施された見事な造りとなっていた。江戸時代後期の石原常八が作った社殿彫刻で、神社仏閣の多い京都ででも見たことのないものだった。
 標識の和紙の里なるものを探したが、見当たらず、次に目にした標識にも上に「和紙の里」と書いてあり、小川町一体を和紙の里と称していることが判明し、一同大笑いとなった。考えてみれば、和紙の里なるような施設があるわけではないのはすぐにわかる。
 次いで、国道沿いに歩くと、「久保昌太郎和紙工房 体験もできます」との看板が目に入り、掲示の看板に沿って田舎道を歩いていくと、民家のなかで和紙の液をモーターで撹拌している30代とおぼしき女性がいたので、見学させてもらった。撹拌がなったところで、すだれのような台を液の中へ浸し、5、6回前後上下に揺すって、和紙の層を作り、ある程度溜まったところで、後ろの台にひっくり返していく。
 ある程度仕上げたところで、重なったまま乾燥させて、そのあと染色する、という。原料の楮、みつまたはいまは東南アジアから輸入している、という。水は地下水をくみ上げている、などこちらの質問に嫌な顔ひとつせずに丁寧に答えてくれた。かつては700軒あった和紙の工場もいまでは数軒になってしまった、という。後継者難と市場の衰退で伝統産業も風前の灯となってしまったようだ。
 お礼を言って、元の道に戻ろうとしたら、入口のところに和紙のみやげもの販売コーナーがあり、物色していたら、帳場に座っていた老人がやおら立ち上がって、手に自分で描いた和紙をちぎって貼り付け、絵とした作品の配色について、「このあたりをどうしたらいいのでしょうか」と尋ねてきた。絵心があるわけでもないので、適当に相槌を打っていたら、「絵の先生についていないわけではないが、いろいろな人に聞いて描いている」などから始まり、和紙のことや地元の殖産施策などについて滔々と語り出した。販売コーナーにちぎり絵も置いてあり、「久保昌太郎作」と書いてある。どうやら、店主でもあり、ちぎり絵の作者でもあるようで、年齢は91歳だ、という。
 2階に作品の展示がしてある、というので、拝見させてもらうと、久保昌太郎さんは和紙職人の人間国宝でもある、としてあった。人間国宝なる人と直接話すのは初めてのことで、気さくで飾らぬ人柄には好感が持てた。一瞬、ちぎり絵での人間国宝かな、と思ったが、よく考えれば和紙職人としてであることは明らかで、その割りには床の間にデンと構えて重々しい雰囲気のまるでないところがよかった。
 その久保昌太郎さんには評判の悪かった埼玉県伝統工芸会館を見た後は仙元山見晴らしの丘公園へ登った。途中、「カタクリとオオムラサキの林」なる施設があり、全世界の蝶と昆虫が展示してある館があり、充実したもので、驚いた。山道を登るさなか、放蝶された黒い蝶々が飛びかっていたのも感激だった。
 見晴らしの丘公園は曇り空のなか小川町一体が一望でき、絶景であった。折からの雨で、早々に小川町まで引き揚げたが、今回の旅は人間国宝に遭えたことが最大の収穫だった。
 いつまでもお元気で、人間国宝の久保昌太郎さん。
 
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