prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「一命」

2011年10月23日 | 映画
橋本忍脚本・小林正樹監督・仲代達矢(当時29歳!)主演の1962年作「切腹」のリメイクではなく、同じ滝口康彦原作「異聞浪人記」の再映画化、ということになっているが、「切腹」自体が基本的な設定・構成を原作に全面的に依っているわけで、比較するなというのは無理です。

「切腹」では冒頭、井伊家の古文書が朗読されるところから始まるように、基本的に井伊家城代家老・斉藤勘解由の視点で、来訪した浪人・津雲半四郎の素性と意図を外側から順々に描いていく。
半四郎の台詞を使番が途中から受け継いでそのまま家老に伝える、といった語り口からも、簡単には半四郎の正体と策略を明かさず、何枚もの殻がかぶっているのを一枚づつ剥していくような語り口で、極端に言うと、半四郎の意図というのは最後まで見ても必ずしもはっきりしない、少なくとも簡単に割り切れるものではない。
家老の言っていることの方が筋が通っているではないか、という批評が公開当時からあった。
実際、庭先を借りて切腹をしたいという言い分は、クッションを置かずにいきなりじかに聞くとずいぶん身勝手に聞こえ、その上で感情移入させようという組み立てには無理がある。

「切腹」が押さえていてリメイクからすっぽ抜けているものの一つは、半四郎が大阪の陣以前の「実戦」をくぐり抜けてきた侍だという点だ。
だから仇と狙う井伊家の三人の家臣をそれぞれ一人でいる時を狙って襲うのだし、「刀は切るだけでなく、突くこと、いや敵の刀を叩き折ることもできる」とうそぶき、井伊家が称する赤備えの武勇など「所詮は畳の上の水練」と嘲笑もする。
何が実戦的かという視点を外したため、リメイクのクライマックスの立ち回りは信じられないくらいリアリティを欠いた、バカげたものになった。

実際に戦ってきた侍が、形骸化した武士道の権威を押し戴く井伊家を撃つのに使ったのは、「家族」を大切にするヒューマニズムであるより(それでは明らかに勝ち目はない)、実戦上の技術であり、策略だというアイロニーが、「切腹」にはある。 
一方で、半四郎自身がもっともふさわしい「死に場所」を井伊家に押し付けて、死に花を咲かす自己演出をしたのではないか、といった解釈の余地も残す、一種デモニッシュなキャラクターになっている。
そこから逆に、家老の方も武士道の虚妄など承知の上でそれでも守らなくてはならない、といったニヒリズムの陰影が出た。

今回の家老は役所広司なので前作の三國連太郎のような悪役・仇役という印象は薄れ、自ら介錯するような武士の情けを持つ役になっているが、代わりに竹光で腹を切らせるという残酷な趣向を青木崇高扮する沢潟彦九郎(「切腹」では丹波哲郎、異様な迫力)の個人的なサディスティックな性向に求めてしまっているので、「武士道」の理不尽さとは別物になってしまっている。

武士道批判、というのは1962年ならば大和魂を標榜して泥沼の戦争に突入した日本人の非論理的・悪しき精神主義的体質とダブルイメージで意味を持っただろうが、今だったら官僚主義の弊害の方に近いだろう。
いずれにせよ、ここで描かれるような単純なヒューマニズムで対抗できる相手とは思えない。

表現でいうと明らかに後退しているのをいちいち挙げればきりがないが、「切腹」で半四郎の娘婿の千々岩求女が着替えを求められ見ると用意されているのは死に装束、あるいは用意された脇差を見ると自分のもの(つまり竹光)、という、見せてわからせるという工夫を忘れてもっぱら台詞で言ってしまっている。

食べ物の描写がいろいろと付け加えられているのはいいとして、家に届けられた求女のなきがらから井伊家で出された菓子が出てくるのはムリがある。だいたい菓子を出すいわれはないし、もらったあと風呂に入って二度も着替えをしている。菓子が入りっぱなしなのは不自然。

「切腹」はカンヌで審査員特別賞を受賞している。
それとの関連を等閑にし、そのくせカンヌで上映されたことを宣伝材料とするというのは、今の客は昔の映画など見ちゃいないだろといった驕りを感じる。

橋本忍による構成美の極地といっていい脚本、武満徹作曲の薩摩琵琶の響きと拮抗する仲代以下の朗々たる台詞と場面転換のリズム、美術・撮影の造形美と、「切腹」ほど総体としての映画の力に漲った映画は稀だ。
なぜそれをリメイクするのか見る前もわからなかったし、見たあともわからない。

井伊家の壁の剥げかけた赤色に形骸化した赤備えの武勇を象徴させた表現をはじめ、美術の質感の表現はすぐれたもの。
(☆☆☆)

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