物価高と低賃金に対する不満からのデモに当局が手を焼いて上=モスクワからの圧力もあって群衆に発砲してしまう。このあたりはまるっきり資本主義国のデモかストライキに対する弾圧と同じ経過と絵面が続くのがなんともいえない皮肉に見える。
ここで明らかに狙って撃っているようではなくても流れ弾が当たったらしい描写にしている
この映画の舞台の1963年というと、1937年生まれのコンチャロフスキーがソ連邦国立映画大学の卒業制作の短編「少年と鳩 」を発表してヴェネツィア映画祭で短編部門のグランプリを受賞、大学の同窓生のアンドレイ・タルコフスキーが同じ映画祭の長編部門で「僕の村は戦場だった」がやはりグランプリを受賞した時期にあたる。
白黒・スタンダードサイズで作られているのもこの頃でも古風なフォーマットなのをあえて再現しているのだろう。
いわゆる「雪解け」と見なされた、当時の新しい世代のソ連の監督が輝かしい成果を上げた時期なわけだが、すぐ当局の引き締めが厳しくなり、二人が共同脚本を書きタルコフスキーが監督した「アンドレイ・ルブリョフ」は五年に及ぶ公開延期になり、コンチャロフスキーは「貴族の巣」「ワーニャ伯父さん」といった安全パイの19世紀ロシア文学の映画化に向かった。
この映画で発砲の前に子犬が親犬のおっぱいに吸い付いていたり、虐殺計画を聞いた車のまわりの畑から鳥が黒雲のように飛び立ったりを見せる一種抒情的な映像感覚はこの初期作品から見られる。
1984年に渡米して「マリアの恋人」を撮ってからしばらくアメリカで仕事して、その後もロシアはじめ各国を股にかけて活動している。タルコフスキーが亡命宣言を出してパリで客死するのに比べると、言い方悪いが世渡りは上手い。父親がソ連国歌の作詞家のセルゲイ・ミハルコフという家柄のせいもあるのではないかと想像する。
虐殺の描写は思いの外控えめ。