prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ロストケア」

2023年04月04日 | 映画
松山ケンイチと長澤まさみが対峙するシーンは黒澤明の「天国と地獄」が原点として浮かび上がる。特に鏡=ガラスの使い方。
中盤までは あくまで 取り調べられる者と調べる者という関係で、さらには社会の落とし穴にはまった下級国民と上級国民といった互いに相容れない存在として描かれていて(つまり「天国と地獄」)、鏡に映るのももっぱらそれぞれの複数の鏡像が一つの画面に収まってるように撮っている。いわば、それぞれ自分しかいない世界に閉じこもっている図だ。

それが終盤の面会室のシーンでは間を仕切る ガラスに 互いの顔がダブって見える。それまでの展開で、実は二人には親との切りたくても切れない関係がある点で(それはほとんどの人間がそうだろう)だぶるのがわかってきたのと重なる。物理的な仕切りができることで却って二人が重なってることが示されるアイロニー。

前半 カメラがゆっくり動いてるカットが多く、対立が激しくなるとカットの重ね方の切れ味も良くなってくる計算された演出で、主演ふたりのやりとりの緊迫感を高めた。

 中盤までの 松山ケンイチのキャラクターは「ブラック・ジャック」のドクター・キリコを思わせる 怪物的でようで 説得力のあるキャラクター だが、中盤から怪物ではない人間であることが次第に明らかになっていく。
その分良くも悪くも常識化するわけで、やや場面とすると弛緩する。

介護の辛さについての描写が出てくるのだが 介護というのは単に休みがない、親が壊れていくのを見るのがつらい、何の報酬も出ない(この国では介護に限らず家族の労働は無料で当たり前という考えの上に成り立っている) というだけではなく、 本質的な解決が死によってしかありえず、しかも頑張れば頑張るほどその解決の到来を 引き伸ばしてしまう構造にあるわけで、映画の切り取られた時間の中で描くことには本質的な矛盾がある。

語りの中に一種のミスディレクションが さりげなく入っているのだが こういう技法を 前田哲監督は好むらしい。 「そして バトンは渡された」でも使っていたし、自分が「学校の怪談G」の「食鬼」の脚本を書く時にもそういうひっかけを作ってくれと要求された。

マタイ伝の第七章の引用から「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい 」というのが冒頭に掲げられ重要なモチーフになっているのだが、メインタイトルの「ロスト」のトの字や、松山の部屋の窓の影が十字架のように見える。