prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「プロミシング・ヤング・ウーマン」

2021年08月02日 | 映画
出だしから、ヒロインを酔ってると思って絡んでくる男たちに酔ってないところを示して自分の意思をはっきり示すところで、やや不自然なくらい男たちがうろたえる。

通常だったら女を舐めっぱなしで力づくでどうにかしようとしてもおかしくないはずだが、女に意思があるのとを伝えるだけでうろたえる。
あからさまな暴力は重要な小道具である動画を含めて画面からはとりあえず排除されている。
それだけに直接的な暴力描写が現れると、その暴力性(に映画を見ている側も麻痺していたことに)愕然とする。

登場しないといえば、ヒロインにとって無二の親友というかそれ以上の存在のニーナという女性も昔の写真でしか姿を現さない。
演技自体がシーンによって異なる仮面のようでもあり、演技性を観客にもだが、男たちをあからさまに見せつける。

男たちが酔って意識を失っていると思い込むのは、初めから女の意思を無視しているからであり、それ以上に存在そのものを失念している。

構図とすると、ジョディ⋅フォスターが最初のオスカーを受賞した「告発の行方」のような集団心理の悪ノリによる性犯罪の面はあるのだが、法によって裁くとか個人的に暴力に暴力をもってリベンジするといった解決をどちらもとらない。
そういうのを見せものにして性と暴力を商品化し消費するという無意識的な押し付けをこの映画の作者は拒否している。女の存在と意思の無視とあらかじめ当然のように基準化されたシステムに組み込まれるのをどう逃れるかという戦略と知性が大きな成果を上げた。

ヒロインの父親役がクランシー・ブラウン。「ハイランダー 超空の覇者」のタフな悪役や「ショーシャンクの空に」の看守長など憎まれ役が多かったけれど、ここでは髪の毛が真っ白になって娘を心配する父親の枯れた感じを出している。