大きく三つのパートに分かれた三部構成だが、絶えず時制が微妙に交錯してそれが単純な説明的なフラッシュバックではなく、ラストの二人の小さな女の子が田んぼ道を歩いていく光景が惨劇の前のものであるにも関わらず、全体の文脈中の位置づけとしては作中のセリフでいうところの"楽園"の図になっているといった具合に映画的に再構成されている。
佐藤浩市が土を食べるところで、父の三國連太郎がやはり土を食べた「襤褸の旗」の姿がだぶる。
三國は田中正造役として国の方針として廃村にされようとしている川島村を、川島村はここにあると半ば狂ったように官吏の前でその土を食べてみせるのだが、立場や時代こそ違え狂的な表現の仕方は血は争えない。
佐藤浩市が土を食べるところで、父の三國連太郎がやはり土を食べた「襤褸の旗」の姿がだぶる。
三國は田中正造役として国の方針として廃村にされようとしている川島村を、川島村はここにあると半ば狂ったように官吏の前でその土を食べてみせるのだが、立場や時代こそ違え狂的な表現の仕方は血は争えない。
それにしても、日本の限界集落化が著しい地方の自治体が当たり前のように描かれるようになって久しい。
日本映画は直接的に政治や歴史を描くことはあまりないにせよ、日本の政治の歪みやそこに至るまでの歴史的経緯はおのずと背後に見えてくる。