イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
死からいのちに
「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:21-25)
---
今や実現した恵みによるよみがえりについて。
「死人」とはずばり、私たちのこと。
ここでイエスが言う「いのち」とは何であろう。
罪深いアダムの肉を赦していただくことである。
この肉が相変わらず醜い肉のままであることに変わりはない。
しかし、その醜いままで赦していただいた結果、さばきの恐怖から解放され(私たちは罪なき者とみなされているので)、そして約束のものを確信することができるようになる。
そのようにして死人であった私たちは、イエスから罪を赦していただいて、いのちに移ることができる。
この「いのち」は、私たちが自ら獲得するものではなく、もっぱらイエス・キリストから賜るものである。
それも、行ないの報酬としてではなく、恵みによって与えられる。
恵みによってイエスに出会い、イエスのことばを聞いて御父を信じた者は、上に書いたように「いのち」を賜る。
「いのち」を賜って、悟りが開ける訳ではないし、明鏡止水の心持ちにもならない。
むしろそれは、文字通り生きるための力、それも、生きる力が弱まっているときにこそ働く力であり、私たちはその力に根底で支えられる。
私たちの中にある罪深い肉という障害物が、もはや障害物ではなくなったから、という気がする。
---
※試験的に、さくらブログと以前のgooブログ(http://blog.goo.ne.jp/levi9183)の両方に記事を掲載します。
gooブログがレイアウトや広告等の面で大丈夫そうであれば、元に戻そうと考えています。
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:21-25)
---
今や実現した恵みによるよみがえりについて。
「死人」とはずばり、私たちのこと。
ここでイエスが言う「いのち」とは何であろう。
罪深いアダムの肉を赦していただくことである。
この肉が相変わらず醜い肉のままであることに変わりはない。
しかし、その醜いままで赦していただいた結果、さばきの恐怖から解放され(私たちは罪なき者とみなされているので)、そして約束のものを確信することができるようになる。
そのようにして死人であった私たちは、イエスから罪を赦していただいて、いのちに移ることができる。
この「いのち」は、私たちが自ら獲得するものではなく、もっぱらイエス・キリストから賜るものである。
それも、行ないの報酬としてではなく、恵みによって与えられる。
恵みによってイエスに出会い、イエスのことばを聞いて御父を信じた者は、上に書いたように「いのち」を賜る。
「いのち」を賜って、悟りが開ける訳ではないし、明鏡止水の心持ちにもならない。
むしろそれは、文字通り生きるための力、それも、生きる力が弱まっているときにこそ働く力であり、私たちはその力に根底で支えられる。
私たちの中にある罪深い肉という障害物が、もはや障害物ではなくなったから、という気がする。
---
※試験的に、さくらブログと以前のgooブログ(http://blog.goo.ne.jp/levi9183)の両方に記事を掲載します。
gooブログがレイアウトや広告等の面で大丈夫そうであれば、元に戻そうと考えています。
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )