三年間

 「イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(ヨハネ14:22-24)

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 イエスは、弟子たちには復活の御自身を現そうとしながら、なぜ世には現そうとしないのか?
 前はさっぱり分からなかった。
 今もはっきりわかったとは、到底言えない。
 さしあたっての仮説を記しておこう。

 イエスは人となってこの世に来られた。
 三年の間、人々と共にあった。
 この三年間を「公生涯」という。
 この公生涯の間、どの人もイエスを見ることができ、触ることができ、話しかけることができ、イエスのお言葉を聞くことができた。
 弟子たちも、取税人・遊女も、体の不自由な人や病人も、そして律法学者やパリサイ人も。
 三年間ののち、イエスは十字架に架かって死ぬ。
 そして復活するのだが、「誰もが神の子・イエスと接触できた三年間」が際だって異例だったにすぎないがゆえに、復活後のイエスは、イエスを愛する者にしか「現れない」のではないか。

 神はそもそも、誰にでも現れる存在ではない。
 当たり前だ。
 思いつくままに上げると、アブラハム、ノア、モーセ、エリヤ等預言者達…。
 きわめて限られていた人たちに、神は現れた。
 そうであったのが、「三年間」、神が人々と共にあったのだ、奇跡ではないか。
 もっとも、そのことが分からなかった人が多かったのだが。
(もちろんパリサイ人だ)
 復活後のイエスは、父の下に帰り、そして異例の期間が突然終わる。

 「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」。
 今は、上のみ言葉の時代、聖書の時代、イエスの約束の時代だ。
 私たちに遺されているのは、畢竟、聖書だけだ。
 「その人とともに住みます」。
 きわめて限られた人にしか現れなかった旧約時代の神と比べれば、やはり異例だ。
 「世には現」われるわけがない。
 加えて、誰にでもというわけでは、ない。
 そうでないと、恵みが恵みでなくなってしまう。


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