イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
罪状は?
「そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」(ヨハネ19:10-16)
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同じヨハネ福音書には、次のような箇所がある。
「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:10)
「わたしがわたしの父の戒めを守って」。
イエスは、あの律法を守り通した。
その意味で、 sin としての罪がないお方だ。
そう前置きした上で上の聖書箇所へ。
ピラトがイエスを尋問する。
guilty としての罪が見あたるかどうかの尋問だ。
「自分を王だとする者」等あることから、罪状は反乱罪の類だろうか。
自ら言うとおり、総督ピラトには、捕らえられたイエスを無罪放免する権限も、また、最高刑の十字架に処する権限もある。ピラトの判断次第だ。
「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した」とあることから、ピラトの心証は無罪釈免の方に傾いていた、というより、こんなことはどうでもよかったかも知れない。
ところが、イエスを捕らえた側がどんどんエスカレートしてゆき、「彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ」という一大騒動にまでなってしまう。
騒動が暴動にまでエスカレートしてしまうと、総督ピラトの統治能力をカイザルから問われる。
それを恐れて、何の罪状かも分からないままに、「そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した」。
前置きしたとおり、イエスには sin としての罪は、全くない。
guilty かどうかはうやむやのまま、それこそ群衆を一時的になだめるためだけのために十字架刑に処せられることとなった。
しかしそれは予定されていたことであり、その十字架が神をなだめ、復活のイエスは「永遠のいのちへの水」(ヨハネ4:14)を流してくださる。
その流れをせき止めている私たちの中の sin としての罪も、取り除いて下さる。
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イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」(ヨハネ19:10-16)
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同じヨハネ福音書には、次のような箇所がある。
「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:10)
「わたしがわたしの父の戒めを守って」。
イエスは、あの律法を守り通した。
その意味で、 sin としての罪がないお方だ。
そう前置きした上で上の聖書箇所へ。
ピラトがイエスを尋問する。
guilty としての罪が見あたるかどうかの尋問だ。
「自分を王だとする者」等あることから、罪状は反乱罪の類だろうか。
自ら言うとおり、総督ピラトには、捕らえられたイエスを無罪放免する権限も、また、最高刑の十字架に処する権限もある。ピラトの判断次第だ。
「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した」とあることから、ピラトの心証は無罪釈免の方に傾いていた、というより、こんなことはどうでもよかったかも知れない。
ところが、イエスを捕らえた側がどんどんエスカレートしてゆき、「彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ」という一大騒動にまでなってしまう。
騒動が暴動にまでエスカレートしてしまうと、総督ピラトの統治能力をカイザルから問われる。
それを恐れて、何の罪状かも分からないままに、「そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した」。
前置きしたとおり、イエスには sin としての罪は、全くない。
guilty かどうかはうやむやのまま、それこそ群衆を一時的になだめるためだけのために十字架刑に処せられることとなった。
しかしそれは予定されていたことであり、その十字架が神をなだめ、復活のイエスは「永遠のいのちへの水」(ヨハネ4:14)を流してくださる。
その流れをせき止めている私たちの中の sin としての罪も、取り除いて下さる。
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