「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)

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 律法学者やパリサイ人のような「目の見えない人」のことを、少し前に書いた。
 また、まれには「目が見える人」もいたということを、十字架への道を歩むイエスに高価な油を注いだ女性を例に出して、やはり少し前に書いた。

 だから、「からだのあかりは目」なのだと思う。
 この「目」こそ、生命線だ。
 「健全」(開いている)ならば「全身が明る」く、「不健全」(目が閉じている)ならば「全身が暗い」。

 最初から目が健全な人は、いない。
 だから、はじめから全身の明るさを知っている人も、いない。
 ただ、自分の体の暗さに気付いた人というのは、いる。
 例えばニコデモ(ヨハネ福音書3章)が、そうだ。
 ふと気付いたとき、自分の体のそのあまりの暗さに、足がすくんでしまうのではなかろうか。

 上のニコデモに対し、イエスは次のように仰っている。

 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)

 風というのは、見えない。
 見えないのだが、確かにあることが分かる。
 確かにあるには違いないが、その由来すら分からない…。

 目が見えるようになること(私は「いのち」ともっぱら言っているし、「御霊」でもなんだっていい)、これは正にこの風と同じだ。
 どれだけうちわで扇いだって、やってこない。
 そのくせ、莫大な恵みがあって風に預かる。
 目が見え、体が明るくなる。
 そのためにイエスは、目薬まで用意してくださっている(「また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3:18))。

 ともかく、聖書の世界というのは、目が見えてからが始まりだと思う。


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