イエスなんかだいっきらいだった

 「イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
  するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」(マルコ9:21-25)

---

 今日は、私のきわめて個人的な話を書こうと思う。

 1999年、私は生まれて初めて教会というところに行き、そしてややして聖書を手にした。
 一神教としての「神」は、すぐに理解がいった。
 「聖霊」というのも、なんとなく分かったような気がした。
(今はかえって、分からないことにしている。)
 ところが、聖書の中で最も重要なイエス、このお方が「何なのか」さっぱりわからなかった。
 ずっと分からなかった。

 私は三位一体について書こうとしているのではない。
(そんなもん、書けない。)
 聖書を読んでいっても、イエスに対する共感や崇拝、同情の念の類を、どうしても抱くことができなかったのだ。
 このイエスという人は、人々を癒したり悪霊を追い出したりしているうちに十字架に架かって復活した、それがなんだというのだ、というのが正直なところだった。
 だから、ビデオや映画の類を見るとなおさら気持ちが離れていった。

 そのうち、だんだん、イエスが嫌いにすらなっていった。
 上の聖書箇所が、そのきっかけだ。
 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」、この言い方が気に入らない。
 「イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると」、お前、ただの目立ちたがり屋じゃないか。

 ヨハネ福音書の中にも、イエスの言動にヒステリックさを感じ取ってしまい、ほとほと嫌気が差していた。

 大体にして聖書を読んでいてイエスが嫌では、まずいだろう。
 そういう思いがあったので、この嫌悪感は長年私を苦しませた。
 だが苦しもうが、嫌なものは嫌なのだ。

 さて今の私の内には、そのような感情は微塵も残っていない。
 私は今、イエスを心の底から愛し、つき従っている。
 「人」になられて使わされたのは、あくまでこのイエスなのだ(「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」ヨハネ1:14)。
 上記した聖書箇所は、次のように把握している。
 イエスは、どこまでもすがりつくような信心をお求めになる。
 たとえばツロ・フェニキアの女(マルコ7:25-30)のように。このような話は、随所に出てくる。
 また、しるしは大勢の人に見てもらうためにするものだ。1人よりは10人、10人よりは100人。
 その中から、1人でも救われる者が出るために。見えるようになるために。


 去年の今頃までは、私はまだ何一つ分かっていなかった。
 何も見えていなかった。

 イエスは、当時の最高刑・十字架に架かって死に、三日後に復活する。
 それと同じように、人が「見える」ようになるためには、自ら担いだ自分の十字架 -それは生涯の内で最も重たいものかも知れない- に「死ぬ」ことが、どうしても必要なのだと思う。
 見えなかったものが、(神がお造りなったそのままに)見えるようになること、これが復活ではないかという気がしている。
 それで今までも、イエスの十字架がこの道を切り開いてくれた、とたびたび書いた。

 渓流で遊んでいるところを想像して欲しい。
 ある地点では、ぽちゃぽちゃとお気楽にやっている。
 だが、突然流れの急な箇所にさしかかってしまい、もはや自分の身で自分を制御することが不可能となり、滝が流れ落ちるところまで行き着き、そして、落ちる。
 落ちてどうなるのかというと、一巻の終わり、なのではなく、そこは静かで涼しげだ。
 そこで、見えるようになる…。
 「自分の十字架」とは、このようなものだと思う。
(この話はイメージなので、実際に滝に落ちようとはしないように。)

 本ブログを私は昨年5月から始めているが、昨年9月を境に記事の内容は大きく様変わりし、また、大きな出来事等がなければ毎日書き連ねてきた。不思議と毎日、何かしら書くことは見つかった。
 象徴的な2つの記事をリンクしておこうと思う。

・自分の十字架に架かっている頃の記事……こちら
・聖書の見方が全く変わった最初の記事……こちら


 第二のリンク先でも書いたが、私にとってとどめは「私はいのちのパンです」(ヨハネ6:48)だ。
 このとき初めて、イエスが分かった。
 ぴちゃぴちゃやってた頃は、何度読んでも全く分からなかったものだ。
 そして第一のリンク先での記事は、まだ「滝に落ちる」よりも手前の記事だ。
(その証拠に、ブログを書けるだけの余力がある。聖書の引用にも、目を覆うものがある。)

 私は思う、かつてイエスをきらいであって良かったと。
 そうであったからこそ、イエスを見いだしたときの喜びが一層きらめいたのだから。
 イエスというのは私にとって、「私はいのちのパンです」という名のお方だ。
 だから私は、このお方なしには生きることができない。
 いったんできたイエスとの関係は、何しろイエスが不変なので、強固だ。
 かつて、訳が分かったふりなんかせずに、イエスなんかだいっきらいだと素直に思っていて、心底よかったと今は思う。
(ただ、そのことは誰にも言えなかったが。)

 イエスは、誰にとっても見いだされたがっている。
 だいっきらいで、一向に差し支えない。


---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
«  偶像礼拝 »