イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスのことば
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」(ヨハネ8:31-37)
---
イエスのことばが自身の内に入ってくるかどうかということは、とても大きな違いだ。
そのイエスのことばが入ってきてとどまるとき、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とイエスは仰る。
こう書き進めてゆくと、難しい語句たちが並ぶ。
「イエスのことば」、「真理」、「自由」。
「イエスのことば」が難しいって?!
さて、どうであろうか。
分かるか分からないか、そうして入ってくるか入らないかの違いの問題に帰する。
そして、この違いは理屈や因果によって乗り越えることができる類のものではない。
恵みとか恩寵とか、そのような概念が働くときに、気付くとふっと乗り越えている。だから、どこまでも受動的になるしかない。
イエスのことばが入ると、「真理」が分かる。
「真理」とは、ほんとうに大切なただひとつのものと書けばいいのだろうか。
(「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」マタイ13:44)
では「ただひとつのもの」とは何かというと、それを言葉にすることは多分無理なほど、とらえどころがない。
そして「自由」になる。
上の聖書箇所で、群集とイエス達は、この点で揉めている。
「自由」というのは、酒も煙草も、なにやってもよろしいとか、そんなことではない。
(むしろそれは不自由なことだ。)
すぐに思いつくのは、マモニズム(カネこそ第一)からの解放。
解放されて、カネからまったく自由になる。
それと上の引用聖句で言えば、まさしく「アブラハムの子孫」に固執することからの解放。
「アブラハムの子孫」であることよりもはるかに素晴らしいもの、それが「真理」なのだから。
自分をがんじがらめにしていた数多の事柄から解放されて、「自由」になる。
ただ、「自由」というのは、イエスのことばが入って「いのち」をいただいた、その結果というか副産物だろう。だから「自由」にウェイトを掛けるのも、ベクトルの向きがずれてしまう。
イエスのことばが真に入ってくるかどうか、聖書というのはとどのつまり、このことだけではなかろうか。
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そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」(ヨハネ8:31-37)
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イエスのことばが自身の内に入ってくるかどうかということは、とても大きな違いだ。
そのイエスのことばが入ってきてとどまるとき、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とイエスは仰る。
こう書き進めてゆくと、難しい語句たちが並ぶ。
「イエスのことば」、「真理」、「自由」。
「イエスのことば」が難しいって?!
さて、どうであろうか。
分かるか分からないか、そうして入ってくるか入らないかの違いの問題に帰する。
そして、この違いは理屈や因果によって乗り越えることができる類のものではない。
恵みとか恩寵とか、そのような概念が働くときに、気付くとふっと乗り越えている。だから、どこまでも受動的になるしかない。
イエスのことばが入ると、「真理」が分かる。
「真理」とは、ほんとうに大切なただひとつのものと書けばいいのだろうか。
(「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」マタイ13:44)
では「ただひとつのもの」とは何かというと、それを言葉にすることは多分無理なほど、とらえどころがない。
そして「自由」になる。
上の聖書箇所で、群集とイエス達は、この点で揉めている。
「自由」というのは、酒も煙草も、なにやってもよろしいとか、そんなことではない。
(むしろそれは不自由なことだ。)
すぐに思いつくのは、マモニズム(カネこそ第一)からの解放。
解放されて、カネからまったく自由になる。
それと上の引用聖句で言えば、まさしく「アブラハムの子孫」に固執することからの解放。
「アブラハムの子孫」であることよりもはるかに素晴らしいもの、それが「真理」なのだから。
自分をがんじがらめにしていた数多の事柄から解放されて、「自由」になる。
ただ、「自由」というのは、イエスのことばが入って「いのち」をいただいた、その結果というか副産物だろう。だから「自由」にウェイトを掛けるのも、ベクトルの向きがずれてしまう。
イエスのことばが真に入ってくるかどうか、聖書というのはとどのつまり、このことだけではなかろうか。
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コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
« 神に教えられる | シロアム男 » |
私は以前、教会に行っていました。そこは、パスカル・ズィヴィーさんという方が書かれている本の「「信仰」という名の虐待」そのものでした。
睡眠時間があまりにも少なく、自動車を運転中に事故に遭い病床生活を送っています。その担任牧師(代表者)は、ある罪で逮捕されましたが、カルト化した教えを植付けられた私は、今でも聖書は怖いもののように思えてしまいます。
何ヶ月も床の中で涙が止まらない日々が続きましたが、「あなたを孤児とはしない」は、私に言ってくださっているのだと思い、泣きながら「本当のイエス・キリストを、どうしても知りたい!」と、思い続けている時に、こちらに出会ったのです。
ですが、私は「神の愛」を曲げて教えられたので解っているようで解ってません。
「イエスのことばが真に入ってくる」ように、もう一度、何も知らなかった始めに戻って、「イエス様」「神の愛」を知りたいと、切に思っています。
大変お辛いことがhanaさんにあったのですね。
この小さいコメント欄でいろいろ書くのには限界があるのですが、ひとつ胸を張って言えることは、たとえ今まで曲がった教えを教えられていても、聖書という書物は、時が来るとありのままのイエス、ありのままの神の愛を語り出す、ということです。
いったん聖書から完全に離れてしまっても、大丈夫です。神の愛はhanaさんを捕らえて離しませんから。
お体、くれぐれも養生なさってください。
是非とも下記メールアドレス宛にメールを下されば幸いです。
levi9183@mail.goo.ne.jp
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