キリスト・イエスにあって生きた者

 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:6-11)

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 私たちは、ただ神の恵みによってのみ、キリストと共に十字架につけられる。
 死んでしまえば、からみついていた罪から解放される。
 この十字架の死によってしか、罪から解放されることはない。
 そしてキリストがよみがえられたように、その人はよみがえってキリストと共に生きるようになる。

 「罪に対しては死んだ者」というのは、罪に対する全くの無力さを認めることであり、「キリスト・イエスにあって生きた者」というのは、この罪深き身が赦され義と認められている、そう信じることである。
 だから、回心とは、死とよみがえりのことであり、それはただ神の恵みによるのである。

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