イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
キリスト・イエスにあって生きた者
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:6-11)
---
私たちは、ただ神の恵みによってのみ、キリストと共に十字架につけられる。
死んでしまえば、からみついていた罪から解放される。
この十字架の死によってしか、罪から解放されることはない。
そしてキリストがよみがえられたように、その人はよみがえってキリストと共に生きるようになる。
「罪に対しては死んだ者」というのは、罪に対する全くの無力さを認めることであり、「キリスト・イエスにあって生きた者」というのは、この罪深き身が赦され義と認められている、そう信じることである。
だから、回心とは、死とよみがえりのことであり、それはただ神の恵みによるのである。
---
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:6-11)
---
私たちは、ただ神の恵みによってのみ、キリストと共に十字架につけられる。
死んでしまえば、からみついていた罪から解放される。
この十字架の死によってしか、罪から解放されることはない。
そしてキリストがよみがえられたように、その人はよみがえってキリストと共に生きるようになる。
「罪に対しては死んだ者」というのは、罪に対する全くの無力さを認めることであり、「キリスト・イエスにあって生きた者」というのは、この罪深き身が赦され義と認められている、そう信じることである。
だから、回心とは、死とよみがえりのことであり、それはただ神の恵みによるのである。
---
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 新しい歩み | 伝えられた教... » |