イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
わたしは、よみがえりです。いのちです
「マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:24-27)
---
ラザロを蘇らせるしるしを行うにあたって交わされた会話。
マルタを前に、イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と言う。
ここでマルタは物わかりよく答えている。しかし、この時点では、イエスがキリストであると分かった人はいなかったと思う。
「わたしは、よみがえりです。いのちです」というのは、第一義的には、十字架の死とそこからのよみがえりのことである。
イエスは、人に「いのち」を与えるこの最も大きなわざを行う道中にある。
この最も大きいわざが成就して後、イエス・キリストは恵みによってその人に「いのち」を与える。
どのようにして与えるのかというと、その人を極刑の死に至らせ、そしてそこからよみがえらせるという過程によってである。
この過程すなわちイエスの道を切り開いたことこそ、イエスの最も大きいわざなのだ。
そして、「いのち」に預かった人は信仰に入る。「いのち」とは自分を救ったイエス・キリストそのものだからである。
ここでは死んだラザロがよみがえろうとしている。
このイエスのわざは、自身の大きなわざの型を示したのではないかという気がする。
---
健やかな一日をお祈りします!
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:24-27)
---
ラザロを蘇らせるしるしを行うにあたって交わされた会話。
マルタを前に、イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と言う。
ここでマルタは物わかりよく答えている。しかし、この時点では、イエスがキリストであると分かった人はいなかったと思う。
「わたしは、よみがえりです。いのちです」というのは、第一義的には、十字架の死とそこからのよみがえりのことである。
イエスは、人に「いのち」を与えるこの最も大きなわざを行う道中にある。
この最も大きいわざが成就して後、イエス・キリストは恵みによってその人に「いのち」を与える。
どのようにして与えるのかというと、その人を極刑の死に至らせ、そしてそこからよみがえらせるという過程によってである。
この過程すなわちイエスの道を切り開いたことこそ、イエスの最も大きいわざなのだ。
そして、「いのち」に預かった人は信仰に入る。「いのち」とは自分を救ったイエス・キリストそのものだからである。
ここでは死んだラザロがよみがえろうとしている。
このイエスのわざは、自身の大きなわざの型を示したのではないかという気がする。
---
健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )