『信じる』とは

 「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:8-10)

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 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」の箇所が一人歩きしがちな聖書箇所。
 では、「心に信じて義と認められ」にいう「信じる」とは、どういうことだろうか。

 数々のみことばを暗唱して諳んじることだろうか。
 そうすれば、たしかにみことばは「あなたの口」にあるかもしれない。
 しかし、もしも旧新約聖書の全てを暗唱できても、それと救いとは別なのである。
 その人が救われたとき、ああ暗記したことは意味がなかったと思うだろう。
 なぜなら、みことばは内側から湧き出てくるからである。

 聖職者に信仰告白するのは、どうだろうか。
 十字架の前にひざまずいて、イエスこそわが主ですと言うことの証人になってもらうのだ。
 しかし、会ったこともないイエスが、何故その人の主人になりうるのだろうか。
 イエスが通り抜けた十字架の死とよみがえりを、その人も通り抜けたであろうか。
 その人が救われたとき、ああ今までは信じてすらいなかったのだと悟るだろう。
 なぜなら、観念的な理解や形式は、信仰に直接つながらないのである。

 信じた結果が救いなのだが、この信じるというのがとても難しい。
 頭でいくらこねくりまわしても、それは考えているのであって信じているのではない。
 この信仰というのは、あるかないかのどちらかしかないのである。
 イエスに出会うより前か、イエスに出会った後か。
 十字架の苦しみとよみがえりの喜びを体験したか。
 そして、救い主イエスに出会う際には、その人がイエスをとっつかまえるのではない。
 イエスがその人の元を訪れて、外から戸を叩くのである。
 主導権がどこまでも神の側にあるからで、私たちにできることはイエスの訪れを祈ることに尽きる。

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 健やかな一日をお祈りします!
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