人を赦すことについて

 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:12-15)

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 主の祈りより。また、イエス自らによる解説。

 「私たちの負いめをお赦しください。」というのは、私たちの期待するところそのものである。
 この肉の罪、自分ではどうにもならないこの罪を、どうかお赦しください。その切実な気持ちについての祈りである。

 続いて「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」とある。イエスの解説「もし人の罪を赦すなら、…。しかし、人を赦さないなら、…。」も、もっぱらこの部分についてのものだ。
 だめ押しの解説までするほどに、人を(または人の負い目を)赦すことは困難だ。
 簡単に赦すことのできることもあれば、到底赦すことのできないこともあり、その両者の区分けは人それぞれに異なっているように思うが、自分を侮辱したり貶めたり苦しみに遭わせた人を赦すことは、どの人にもきわめて難しいだろう。
 だがイエスは、赦せ、と、できないことを言う。
 それゆえに、私たちは人を赦さなければならない。そうでないと、御父も私たちをお赦しにならない。

 言い換えると、人を赦すことのできない私たちは、御父の怒りの下にいるのである。
 私たちが「あの人を赦した」と思っていても、それは御父の赦しについての基準をはたして満たしているだろうか。
 その基準を満たす形で、私たちは人を赦す必要がある。
 それができなかった、ということは、すなわち私たちは律法に死んでいるのである。
 アダムの肉を持つ私たちは、律法を貫徹することがどうしてもできない。
 このことを頭で理解することには意味がない。
 律法を貫徹しようとつきつめていって、その律法に文字通り死ぬことが必要なのである。
 それは、イエスの十字架、極刑の十字架に架かるのと同じことで、つまり、イエスと共に死に、イエスと共に復活することを意味する。
 その復活の際に、真の赦しが訪れる。
 私たちは義からほど遠いにもかかわらず、義とみなされる。
 律法に死んだときにはじめて、律法とは別の原理による救いの道が開けてゆく。

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