サムイズダート・ロシア

めざせロシア式菜園生活!ダーチャごっことロシア&北海道のお話あれこれ

吹替え訳

2006-11-25 | ヴァルシェブニキ・ドヴァラ
ここしばらく「吹替え訳」にハマッてる。ロシア語の歌を、日本語でそのまま曲に合わせて歌えるように訳すのだ。誰に頼まれたわけでもないけれど、これがやり始めたら止まらなくて、寝ても覚めても「音」にのる「言葉」を探し続け、びしっとキマった時の快感ったらないのです!

その昔、勉強そっちのけで、好きな英語の歌を片っ端から訳してた頃がある。でも日本語に正確に訳そうとすると、妙に長ったらしくて大仰な歌詞になり、プロの訳詞家の訳を見ても、なんか違うと思ってた。

原語ではカッコよくて舌触りのいいフレーズが、耐えがたいほどもっさりした言葉運びになり、やたら哲学的、形而上学的な文章になっちゃってたりする。これじゃあ一介のアーティストが、あたかも悟りを開いた大層な人物であるかのように思えてしまい、ははー!とお言葉を拝聴するのみ。んなわけないのに!

大仰さを助長する理由のひとつは、韻を踏むためだけに選ばれた語句を、バカ丁寧に訳してしまうこと。「韻」は「音」であり「リズム」なのだから、それと同じ効果を日本語において再現するか、さもなきゃ別の表現法を模索すべきなのに、そのままベタに訳すからリズム感のまるでない意味不明の文章になってしまうのだ。それは陳腐な「説明文」であって、「歌詞」とは言えまい。

その点「吹替え訳」は、通常訳とはまるっきり違うアプローチを要する。手本とするところは、1960年代のポップスの日本語歌詞。原詩の大意を伝えながら、日本語の歌としても成立してるし、何より「音」にピッタリはまってる!

「音にハマる」、即ち音の制約のなかで言葉を選ぶことを最優先すると、訳詞するのにそう多くの日本語は必要ないことに気づく。そもそも日本には、俳句に代表される行間を読ませる文化があるのだから、ズラズラと言葉を連ねなくても、体言止めや言い切りでコト足りるのだ。そして、そうやって不要な言葉をそぎ落とし、「意味」よりも「音」で言葉を選んでいくと、かえって原詩のニュアンスや語感により近い「歌詞」になるではないか。しかもそのまま歌える!これは楽しい!

というわけで、歩いてても、泳いでても、同じ曲を延々リピートして言葉をのせては歌い、のせては歌いの繰り返し。顔見知りとすれ違っても、うっかり挨拶しそこなうありさまである。
Comments (2)
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