北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

立ったのは良いが上手に着地できない孫

2022-03-21 21:42:12 | Weblog

 

 生まれて八カ月を過ぎた孫はちょうど伝い歩きが楽しい頃になりました。

 しかし何しろ体の発育がまだまだ不十分なので、なにかに掴まって立ってみたのは良いけれど今度はその先にどうしてよいかがわかりません。

 下半身が体重を支えられれば良いのですが、そこが不安定なために立つだけ立ってしばらくするとどうしようもなくなって泣いて助けを求めるのが常でした。

 それが日々成長が著しくて、ついに先日、立ったところから慎重に重心を下げてゆっくりと座り込むことに成功しました。

 立つこととゆっくりと座ることが同時にできるようになって一気に部屋の中の移動の自由度が増したようで、いよいよ楽しそうです。


 子供の成長の過程をこんなにじっくり見られるのは孫が次女とともに同居しているからですが、自分の子供の時は忙しかったりそれどころじゃなかったりしたので、成長の過程を見る楽しさを感じています。

 学ぶということは、思いついたことをやってみて、失敗してそれで今のやり方ではうまくいかないことを知り、改めて挑戦をするということの繰り返しです。


     ◆

 
 先日解剖学者にしてベストセラー作家である養老孟子さんの講演会をyoutubeで見ていたところ、養老先生がまさにその「学ぶとは何か」ということをお話しされていました。

 先生曰く、「学ぶというのは"脳にinput"したことを"体がoutput"してみることです」。

 それを繰り返すことで脳に新しい神経回路ができて、できなかったことができるようになる。

 また「このことを陽明学では『知行合一』と言いました」とも。

 つまり知ることと行うことは同じである、ということで、分かったらやってみろ、ということそして、分かったならやれ、良いと思うことはすぐにやれ、ということになる。

 高名な陽明学者だった大塩平八郎は天保の飢饉に苦しむ大阪の住民の姿を見て、幕府や商人たちの対応に憤り、1837年に武装蜂起を画策し後にこれが『大塩平八郎の乱』と呼ばれるようになります。

 ちなみに後に作家の三島由紀夫が1970年に『革命思想としての陽明学』というエッセイを発表し、同年自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺をしたことから、行動の学問としてやや危険な香りを漂わせましたが、王陽明は決してそういうことを意図したわけではなく、自身の行動哲学に寄せてしまった感があります。

 古代ローマの政治家であるユリウス・カエサルは「人は見たいと欲する現実しか見ていない」と言いました。

 
 上手に座れないままに立ってしまった孫のように、戦争をどのように収めるかを混乱しているように見えるプーチン大統領。

 見たくない現実に気がついて、戦争そのものを収束に向かわせてほしいものです。 
 

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