稚内空港から稚内市内中心部へ向かう途中に声問(こえとい)という集落があります。
かつては天北線の声問駅があったところから大沼へと南下する道路の途中に、小学校1年生だった私が2学期と3学期の8か月だけ過ごした家がありました。
橋を渡ってすぐ西側の広場にあったはずの家はもうなくてイタドリが繁茂する原野に変わっていました。
ここにあった家のタンスの前で兄弟3人して「シェー」のポーズで撮った写真は今も残っています。
そしてここから数百メートル西に行くと私の通った稚内市立声問小学校があります。
今は校舎も建て替わりましたが、グラウンドの風景はほとんど変わっていません。
懐かしくて校舎の前まで行ってみると体育館の窓に「開校133周年」という文字が貼られていました。
結構な歴史のある小学校で改めて驚きました。
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私が小学生の頃の昭和30年代後半は稚内も水産業などで元気のあるころで、人口は5万人だったと記憶しています。
人生100年だとしたら年間で500人くらいは子供が生まれていたことになります。
今回の稚内訪問では地元の建設業の方たちにも会って、最近の話をいろいろと聞かせていただきましたが、そんな会話の中で、昨年の稚内市の出生者数が110人ほどだったと聞きました。
一クラス30人学級だったら4クラス、40人学級ならば3クラスという数字です。
稚内市内には大小合わせて小学校は10校あるそうですが、数年後にはそんな状況になることが明らかになっています。
人口減少はもう避けられない社会の流れだとしても、それを前提にどのように社会を支え続けられるのかの道筋がなかなか見つかりません。
ある建設会社の社長さんは、「僕の息子が理工系の大学に進んでいて、卒業したら稚内の会社に就職しても良い、と言ってくれているのですが、うれしい反面、内心(おい、待てよ。本当にそれでいいのか)と思う自分がいます」と、苦しい胸の内を聞かせてくれました。
その意味は「今の会社でも仕事はそこそこあるので、5年や10年はこなしていけると思いますが、その先に社員が高齢化して新しい人が入ってこないとなると会社として仕事を続けてゆけるかどうかに確信が持てない」から、とのこと。
実際、市内の高校では、かつては卒業したら7割は地元で就職して進学は3割だったそうですが、今はそれが逆転してまちに残って就職するのは3割で進学やそれ以外でも町を出てゆく子供が7割なのだそう。
一度出た子供がまた戻ってくるふるさとになるには、就職先や病院や買い物などの暮らしの充実、そして文化や楽しみにあふれた町でなくてはなりませんが、どこまでそれをこの先に実現できるのか。
もしかしたらまちそのものに足りないものがあったとしても、短時間で格安で周辺や遠くのまちと連携してそれらの機能を活用することができるならば、このまちに普段は住んでも良いと思えるかもしれません。
たとえば、名寄、旭川、札幌などに簡単に行けるのならそこでいろいろなものを満たす暮らしができるのかもしれません。
国や社会は、それを経済的合理性で考えるのではなく、広い国土での暮らしを健全に営むために必要なサービスなのだ、という考えもあってよいと思います。
郵便は最近は値上げしたとはいえ、全国どこから出しても一律の料金で市内へでも遠くの地方へでも同じ料金で送ることができます。
辺境に住んでいるものには時間がかかるのは仕方がないけれど、せめて料金は一律、というサービスであっても良い。
都会の人たちは普段から便利な社会を享受しているのであれば、それを簡単に享受できない人たちの分として支えても良い、という考えだって良いのではないか。
残念ながら今の社会はそういう価値観を持っていないようなので、それならば安くて便利なところに行きたい、住みたいと思うのも当然で、それが都会に人が集まって地方から人が出てゆく大きな原因になっているに違いありません。
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今回の旅では、昔仲良くしてもらった人たちにも会えて楽しいひと時が過ごせました。
また近々仕事でもプライベートでも訪れようと思います。
帰りの飛行機の窓からは遠くサハリンが良く見えました。
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