北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

憤せずんば啓せず

2008-05-16 23:48:23 | Weblog
 何気なく手許に置いてあった論語を開いて見ていると「不憤不啓」とありました。「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず」と読むのだそうです。

 意味は、孔子が師匠として教えるときには「(分からないことに)憤(いきどお)るくらいでなければもう教えることはない」ということだそうです。

 せっかく教えているのに、分からないことを悔しいとも思わないような弟子にはもう教えてあげない、という強い気持ちを表しているとのこと。

 最近の学校で先生がそんなことを言ったらたちまちモンスターペアレントの餌食になってしまいそうです。しかし、確かに教える側にも努力が必要なのですが同時に教わる側にも「習うぞ」という気構えと準備が必要なはず。両方の気が一致しなくては良い教えも正しく伝わらないというものです。

    ※    ※    ※    ※

 そう言えば、禅の言葉に「啐啄同時(そったくどうじ)」というのがありました。卵がかえろうとするときに、雛が卵の中からくちばしで殻をつつくのが「啐(そつ)」で、これに気付いた親鳥がすかさず外からくちばしで殻をつついて破るのを「啄(たく)」と言います。

 まさにこの両方が同時でやっと殻が破れて雛が誕生するというわけです。

 師匠と弟子の間もそういう関係を保つことが出来ると良いですね。

 人の話を聞くときは「不憤不啓」、「一期一会」の気持ちで聞こうっと。

 
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