人間学を学ぶ月刊誌「致知」の今月号より。
連載記事の一つに、鎌倉円覚寺管長の横田南嶺(よこた・なんれい)さんの「禅語に学ぶ」という連載記事があります。
今月号のタイトルは「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」という言葉からのエッセイでした。
横田管長の臨在禅の修行では、修行僧に「公案」と呼ばれる問題を与え、座禅してその答えを求めさせるという修行があります。
俗に訳の分からない問答を「禅問答のようだ」と言いますが、決して不真面目なものではなく、真剣な修行。
ただ、「両手を打てば音がするが、片手にどんな音がするか」などといった難問も多く、こうした問いに自ら答えを考えそれを指導僧に示してその可否を問う。若い時分にはとても苦労する修行だそうです。
それでこの横田管長がまだ若いころ、公案に悩んでいたところ、当時指示していた老僧が、「公案を頭で考えては駄目だ、足の裏で考えろ」と教えてくださったそう。
当時は余計に意味が分からなかったそうだが、今でも禅門の修行は裸足で行われていて、冬場ともなるとかかとがひび割れて血が滲んだりもするそうです。
素足で稽古をすることに象徴されるように、足の裏で地面を踏みしめる感覚を大事にしているのだろう、というのが横田管長の感じるところ。
◆
足の裏繋がりで横田管長が紹介してくれているのが坂村真民さんの「尊いのは足の裏である」という詩。坂村真民さんには足の裏を詠った詩が沢山あるのだそう。
尊いのは
頭でなく
手でなく
足の裏である
一生人に知られず
一生きたない処と接し
黙々として
その務めを果たしてゆく
…
頭から
光が出る
まだまだだめ
額から
光が出る
まだまだいかん
足の裏から光が出る
そのような方こそ
本当に偉い人である (『坂村真民全詩集第二巻』より)
最後に横田管長は、「尊いのは足の裏である」と言います。
頭で歩くのではない。四十九曲がり細山道をどう進むか、頭で考えていても混乱するばかりだ。
…新年にあたり高い目標を掲げることは当然大切だが、頭で頂上ばかりを見ていては、姿勢が崩れ足もとが疎かになる。大事なのは、一歩一歩の歩みだ。
この一歩一歩の歩みこそが、お互いを鍛えてくれる人生の道場なのだ。
◆
以上が記事の概要ですが、頭が考えても実践するのは最前線の現場の一人一人の力です。
さて、今年もがんばりましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます