友人との飲み会でススキノへ行くのに久しぶりに電車に乗り東本願寺前の駅で降りました。
実はこの東本願寺、北海道開拓の初期に大きな役割を果たしています。
浄土真宗(門徒宗)はあまりに勢力が強く時の幕府に反抗する勢力だったために、織田信長によって1570年代の俗にいう石山本願寺戦争によって攻め立てられました。
その際に和睦か徹底抗戦かで意見が分かれてその結果中で二派にわかれてしまったとされています。
その後徳川時代には徳川幕府に庶民の中に入り込んでいきましたが、明治維新の際には徳川幕府についたとみなされて危うい立場になりました。
特に西本願寺派は西国に寺が多く早い段階で新政府に近づいたものの、東国だった東本願寺派はそれに遅れ、新政府からは厳しい対応を迫られました。
特に新政府は明治元年に神仏分離令を発令し、それまではあやふやだった神と仏つまり神社と仏閣を分けるようにという政策に転換しました。
このことは単に分けるだけではなく、神社を優遇し寺を廃止しようという画策さえあったほどで、これがために廃仏毀釈によって日本中で多くの仏像が取り壊されたほどです。
これを危機と察した東本願寺派は、自ら蝦夷地における新道切立を願い出て、明治三年(1870年)二月十日に、弱冠十九歳の新門跡である現如上人を先頭に、僧侶や信徒など約180人が京都を出発しました。
東本願寺派蝦夷地につくと、4つのルートで道路を開削しました。
函館では大野~鶉(うずら)、砂原~軍川の2ルート、今の札幌市内で山鼻~八垂別、そして現在の伊達市あたりから中山峠を通って平岸に至る
約105kmのルートです。
このうち最後の中山峠を通るルートは現在の国道230号線の前身とされていて、僧侶をはじめ地元のアイヌ人を雇い、さらには仙台伊達藩の移住者などを募って、明治3年7月から翌4年10月までの一年三か月で道を通したと言われています。
【北海道開発局 ホームページ『本願寺街道』】
https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/douro_keikaku/kluhh40000007mhw.html
こうした苦労の末に、東本願寺派いち早く道内に寺院設立の許可を得て、現在の南7条西8丁目の東本願寺札幌別院に寺院を構えることとなりました。
今はススキノのはずれのお寺というくらいにしかおもわれていないかもしれません。
しかし当時のロシアの南下を恐れて蝦夷地の開拓が急務と認識していつつも金のない明治新政府にとって、こうした開拓は大きな支援とみなされたことでしょう。
人口約200万人の都市札幌の繁栄は、こうした歴史の上に成り立っています。