今週、私の協会の総会があります。
その際に、協会の偉い方から、「総会の時間は早く終わるし、懇親会が始まるまで1時間くらいあるので、小松さん、【なんでもいいから講演してちょうだい】」という依頼がありました。
この【なんでもいいから】というのが、何でも良いようで、実は一番難しくて考え込んでしまいました。
「なんでもいいんだから、小松さんなら引き出しがいっぱいあるでしょ?」
引き出しはあっても、そこから愚にもつかないようなものが出てくるのでは困ってしまいます。
ちょっとは教養になって、少しは舗装とか道路に関係のあるような話題は…、と考えて、『近世の蝦夷とロシアの関係史』というテーマにすることにしました。
蝦夷地は長く辺境の地とされて、松前藩に任されて、江戸幕府からは顧みられることなく過ぎていった、となんとなく思いがちですが、近世においては息をのむような、ロシアとのギリギリの交渉などもあって、歴史ドラマがないわけではありません。
昨年は「北海道命名150年」という記念の年に浮かれ、蝦夷地を北海道と命名した松浦武四郎がやたら持ち上げられていたものです。
しかし松浦武四郎が蝦夷地探検を試み始めた1844年ころの蝦夷地は、一時のロシアとのつばぜり合いが一応収束した安寧の時期でもありました。
この1844年からもう100年ほど遡ったあたりの頃から、1800年代初頭に蝦夷地を舞台にした数々の歴史ドラマを通史的にお話してみたい、というのが今回の私の講演テーマになりました。
道内の各地もこの時期にルーツを持つところは多いのです。
場所で言えば、平取の義経神社、厚岸の国泰寺、当時の蝦夷の首都である松前、エトモと言われた室蘭、探検家が越冬しきれなかったソーヤ、ロシアに襲われた、クシュンコタン(現在の樺太のコルサコフ)と利尻島、そしてこの時期に北海道で初めて道路が開削された、という歴史もあります。
人物で言えば、賄賂政治家として評判の悪い田沼意次、寛政の改革を行った松平定信、北方の島々を探検して歩いた近藤重蔵と最上徳内、伊勢から江戸へ向かう船が難破して漂流し、大変な冒険をした大黒屋光太夫、ロシアとの争いを胆力で防いだ高田屋嘉兵衛、日本に開国を迫った、アダム・ラクスマンとレザノフ、北方にとらえられ松前で牢獄に入っていたゴローニンなど、教科書に載っている人たちも数多くいます。
さらに、政変のごたごたに巻き込まれ、歴史からは抹殺された蝦夷地の探検家たちも登場します。
歴史のない北海道、なんて誰が言いますか。
蝦夷地はこんなに面白い冒険談の舞台なのですがねえ。
さて、一品物のパワポを仕上げるとしますか。