駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

吉川トリコ『マリー・アントワネットの日記』(新潮文庫、Rose,Bleu全2巻)

2022年03月16日 | 乱読記/書名ま行
 1770年1月1日、未来のフランス王妃は日記を綴り始めた。オーストリアを離れても嫁ぎ先へ連れてゆける唯一の友として。冷淡な夫、厳格な教育係、衆人環視の初夜。サービス精神旺盛なアントワネットにもフランスはアウェイすぎたが…時代も国籍も身分も違う彼女に共感が止まらない、衝撃的な日記小説。

「ハーイ、あたし、マリー・アントワネット。もうすぐ政略結婚する予定www」てなノリの文章で全編綴られている一人称小説というか日記小説で、楽しく読みました。要するに今どきのギャル口調というかネットオタク語りというかな文体なのですが、確かにアントワネットってこういうキャラだったのかもな、と思わされます。そして改めて池田理代子『ベルサイユのばら』のものすごさを感じるのでした…(参考文献のトップに掲げられているし)まだ若かった当時の池田氏はものすごく勉強して当時入手できる限りの資料を読みまくり、その上でフィクションを上手く織り交ぜてあの傑作を週刊連載で発表したんですよね、本当に偉業です。
 個人的には脚注がツボでした。脚注というか、いかにも翻訳であると思わせるような仕掛けとして訳注めいたものがついていて、今どきの流行り言葉やネットスラングなんかにくわしくない人のために解説がなされているのですが、意味を薄ぼんやりとしか把握していなくて「正しくはそういう意味だったのか!」とか「語源はそこにあったのか!」となった言葉も多く、学びも深かったので。もちろん「そういうニュアンスじゃないんじゃない?」とか「その説明じゃわからなくない?」ってのもちょいちょいありましたが…
 しかし本当に数奇な、そしてとドラマチックな生涯を送った女性です…合掌。



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『夜来香ラプソディ』

2022年03月15日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアターコクーン、2022年3月14日18時。

 第二次世界大戦末期、日本軍の支配下にもかかわらず租界という名の治外法権で、台風の目のように文化が育まれていた魔都・上海。1945年、日本の人気作曲家・服部良一(松下洸平)は陸軍報道班員として上海に渡っていた。そこで中国人作曲家・黎錦光(白洲迅)や人気女優で歌手でもある李香蘭(木下晴香)と知り合い、ついには陸軍報道班少佐・山家亨(山内圭哉)の計らいで、彼らを中心に人種や思想を越えて大規模な西洋式コンサートが開催される計画が持ち上がる。しかしコンサートの実現には、日本軍や中国国内の政治勢力、上海の裏社会などの思惑が絡み合い…
 作/入江おろば、演出/河原雅彦、音楽/本間昭光。株式会社キューブ25周年企画の音楽劇。全2幕。

 実際に開催されたコンサートだそうです。1979年、終戦後の内戦や文革の嵐で行方不明になっていた黎氏がビクターに「夜来香」の著作権について問い合わせる連絡をしてきて、そこから服部氏や当時参議院議員だったかつての李香蘭、大鷹淑子氏にも連絡が行き、81年に黎氏が初来日、3人で36年ぶりの再会を果たしたんだそうです。それを知って始めた企画だそうです。さもありなん…残念ながらそれしかない、いたって拙い脚本だと思いました。現実のドラマチックさに勝てていない、ただの事実の羅列のような作品でした。「音楽劇」と言えばちゃんとした芝居、ちゃんとしたミュージカルにしなくても、歌入り紙芝居で許される…と思って作ってるんじゃないだろうな、という拙さだったと私は感じました。
 役者はみんな歌えるし、ちゃんとしていました。山内圭哉の杖のつき方だけはちょっと変かなと思いましたけど。あと「ラ・クンパルシータ」支配人・五木勝男(川原田樹)というのは実在の人物なんでしょうか、いわゆるオカマ芝居をしていたのは気になりましたが…とにかくアンサンブルもみんな歌えるし踊れるし、ちゃんとしていました。「男装の麗人・川島芳子(壮一帆)」役のえりたんの男役芸、「伝説の歌姫・マヌエラ(夢咲ねね)」役のねねちゃんの華と本人の口調に似せた芝居と取っ替え引っ替えお衣装と美脚、のっけから売春婦役で超美声スキャットを聞かせたかと思えば中国人女優役と李香蘭のロシア人の幼なじみのち…というリュバ(仙名彩世)の三役までこなすゆきちゃんのさすがの歌声と演技ももちろん素晴らしかった。ホントこの布陣で何故…というホンだったと思います。言うなればダーハラのダメな伝記ものみたいだった…青臭い台詞や冗長な展開で、ミザンスというか芝居場面での役者の動きも単調というかあまり効果的でなく、とにかく素人臭く感じました。モブ芝居とか、わざとなのかと思うほどに学芸会的でしたが、あれはそうした方がわかりやすいということなの…? そういう演出も全体にちょっとナゾでした。
 それでいうとラストのコンサート、というか「夜来香幻想曲」も盛り上がりに欠けたと思います。もっとジャズアレンジの、「ラプソディ・イン・ブルー」ばりにしてみんなで狂乱の歌とダンスで盛り上げてシメ!となるのかと期待していたのに…コンサートを始めるところから始めて、コンサートの歌の合間に過去に遡ってそこに至るまでの芝居を進める、という手法はまあ珍しくはないけど、良かったとは思います。でも挟まれる歌にノスタルジーを感じる世代ってもっとずっと上の世代だろうし、今や知られていない歌の方が多いと思うし、コンサートの歌として歌われているからミュージカル楽曲のようなパンチもパッションもなくて、これまた単調に感じられたんですよね…残念でした。劇中劇ならぬ劇場イン劇場みたいになっているところや憲兵役の役者を客席登場させるところなんかはよかったんですけどねえ…あと幕切れもよかった。
 あ、アンサンブルのダンスで男女を組ませるならホールドを逆にするのはやめてほしかった…! 見栄え重視なのかもしれませんが、ダンスを見慣れた目には違和感が先に立って楽しめませんでした。カップルダンスに対するリスペクトがなさすぎると思うぞ!(振付/青木美保)
 
 幕開きの口上で、「こんなご時世にいらしていただいて…」みたいな主人公の台詞があり、それは今のコロナ禍を思わせるものでもありましたが、同時に今となっては戦時下であることをも思わせるもので、それはちょっとげんなりしましたね。もちろんロシアのウクライナ侵攻に日本はまだ戦争の形で関わっているわけではないのですが、というか日本には戦争放棄を謳った憲法があるのですが、この機に改憲がどうとか核共有がこうとか騒ぎ出すバカがいるわけじゃないですか。でもかつての日本、つまり大日本帝国は今のロシアとまったく同じことをしていたのであり、この作品でも軍部は悪役とされていますがしかし要するに現代日本の我々と地続きなのだということを客席は、またそもそも製作側はちゃんと捉えられているのだろうか、と改めて考えさせられてしまったのです。我々がなるとすればウクライナ側、被害者側ではなくロシア側、加害者側なのだ、このまま暴走しようとする与党政府を止められないのであればその日は近いかもしれないのだ、ということを我々はちゃんとわかっていられているのでしょうか。
 ああ、本当はこんなことを考えずにエンターテインメントを楽しみたいのに…でも生きることはすなわち政治です。目を背けてはならないのでしょう。平和あってのエンタメであり、平和は不断の努力なくして得られないものなのです。がんばるしかありません、がんばれるだけはがんばります。
 と思うなど、しました。



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『薔薇と海賊』

2022年03月10日 | 観劇記/タイトルは行
 シアターウエスト、2022年3月8日18時。

 薔薇の探検をかざして海賊たちに斬りかかるユーカリ少年の冒険物語を書いている童話作家の楓阿里子(霧矢大夢)は、現実を拒否して幻想の夢の世界で一切を避けて生きている。阿里子の家では娘の千恵子(田村芽美)、夫の重政(須賀貴匡)、海外から帰ってきた重政の弟・重巳(鈴木裕樹)が暮らしていた。ある日、阿里子の童話のファンで30歳の知的障害のある青年・帝一(多和田任益)が後見人の額間(大石継太)に付き添われてやってくる。自分をユーカリ少年だと思い込んでいる帝一はここに住みたいと言い出すが…
 作/三島由紀夫、演出/大河内直子、音楽/阿部海太郎。1958年初演、全3幕。

 大河内さんの演出作品は『楽屋』『メアリー・ステュアート』『I DO! I DO!』と観ているのですがすべて赤坂RED/THEATERでの公演だったので、それ以外のハコで初めて観ました(笑)。タイトルからユリちゃんが劇団☆新感線でやった『薔薇とサムライ』みたいなものを勝手に想像していて、それにしちゃハコが小さいなとか思っていたら三島でした(笑)。毎度うかつにもほどがある私ですが、おもしろかったからいいのです。
 最近観た中だとワイルドの『理想の夫』とか、先日同じ建物の二階の劇場で観たばかりのシェイクスピアふうの『冬のライオン』とかと同様に、実際にこんなふうにしゃべる人間はいないよって過剰で膨大な台詞で紡がれる、ほぼワンシチュエーションみたいな舞台の、戯曲らしい戯曲による作品でした。『冬のライオン』はその台詞をいたってナチュラル発声でしゃべるのが作品に合っていておもしろかったように思えましたが、それからするとこちらはぐっと明晰でパキパキした口調の、それこそあえて芝居がかった発声でみんながみんなクリアすぎるくらいにしゃべって進めるお芝居で、そのなんとも言えない異様さが、ちょっと前の時代であれ同じ日本を舞台にしていてもっと身近に感じてもいいはずの作品世界に対して上手く距離を作っているような、謎のファンタジー感が醸し出されているような、そんな演出になっていたように思いました。またみんな声が良くて、声に味があるんだ! そして妙に色気がある…! それからするとやはりきりやんはこの役にはややからっとしすぎではあるまいか…同じ年代のOGならコムとかミズとかの方が似合いだったのではないかしらん、とはちょっと思ってしまいました。でもそれは私に先入観があるからかもしれませんが…この女優さんに関してまったく予備知識のない人が観たら、この阿里子はどう見えていたのかしらん?
 しかし圧巻だったのはラストかな。その直前、「祝祭」「饗宴」のくだりがどうも私にはあまり響かなくて、このオチはちょっと嫌かもな…とか思っていたところへの、阿里子のバサッとすべてを切り捨てる最後の一言! そしてバサッと降りる幕! 暗転、終演! からのその幕がまたバサッと落ちて明転したらみんな笑って立っていてお辞儀しておしまい、という、それはそれはあざやかな終わり方でした。これは私は大納得でしたし、役者が役を降りる瞬間をわざわざ見せないカテコもとてもよかったです。
 阿里子が「世界は薔薇だ」と書く世界をそのまま「世界は薔薇だ」と信じる帝一。阿里子もまた「世界は薔薇だ」と書くことでそう思い込もうとし現実を締め出そうとし抗い戦い目を背けている。でも本当は阿里子は一瞬たりともそんな夢を見たことはなかったのです。そもそも世界が薔薇なら阿里子がそう書く必要もない。阿里子がそう書かなくてはならなかったのは世界が薔薇ではないからで、それは何故かといえばもちろん重政と重巳の兄弟に陵辱された日から世界が薔薇でなくなったからです。彼女はニッケル姫などではなくむしろユーカリ少年になって、薔薇の短剣を男たちの胸に突き刺したかったのです。それほどまでに阿里子の傷は深く、男たちの罪は重いのです。男たちはいずれものんきでそのことがまるでわかっていないようですが、だからこそいっそうその罪は重いのです。
 プロクラムに「生命の祝祭と鎮魂」とあるけれど、阿里子は未だ血を流したままで鎮魂どころか傷も癒えていないのだと私は思います。帝一を得てもそれは何も変わらないでしょう、帝一はなんの役にも立たないからこそ帝一なのです。むしろ救いになりえたのは千恵子だったのかもしれませんが、彼女は阿里子の娘なので、それはさすがに…ということなのでしょう。そして彼女にとっては男と結婚してこの家を出ることが幸せでしょう、せめて救われた女がいるのなら、まだいい。そして阿里子はここで書き続ける、「世界は薔薇だ」と…寂しく、虚しい、怨念の物語。男の作家が書いた、男によって傷つけられた女の悲劇の物語。お伽話を思わせるタイトルをつけられた、無残な涙の結晶…
 そんな作品だったように、私には思えました。国際女性デーに観るにふさわしい演目だったのかもしれません。




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国際女性デーに寄せて~『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』激賞日記

2022年03月09日 | 日記
 日が変わっての更新となってしまいましたが、先日テレビで見たこの映画がとてもよかったので日記として書いておきます。NHKでこのところ多様性に関する映画かなんかの特集をしていて、それで録画して見ました。公開当時、気になっていたけど結局映画館へ行けなかったものです。2017年のアメリカ映画です。
 1973年に、29歳のアメリカ女子プロテニス選手のチャンピオン、ビリー・ジーン・キングと、55歳になっていた往年の男子テニス選手ボビー・リッグスが行った世紀の名試合、という実話をもとにした物語です。ビリーを演じたのはエマ・ストーン。
 とにかくすごくよかったです、何もかもがすごくよかった。だからいちいち語るのもアレなんで、機会があればなんとかして見ていただきたいです。
 男女の試合の賞金格差がひどすぎるので是正を、ということを発端に女たちが立ち上がる物語なんですけれど、とにかくなんか説明臭くないのにキャラとか状況とかがすごくよくわかるのがとてもよかったです。ホットでオシャレな映画でした。
 プロモーターのおじさんたちは、男子の試合の方がパワフルでスピードもあり人気がある、だからだ、とかそれっぽいことを言うんだけれど、賞金額が8倍違っていいほどには観客動員数は変わらない。ビリーたちがあくまでその数字でもって理詰めで問うても、おじさんたちは肩をすくめるだけ。要するに女になんか金を払いたくない、という蔑視が見え見えなんです。じゃ、とビリーはその団体をさっさと抜けて、自分たちで別団体を作ってとっととトーナメント・ツアーを始めて人気をさらっていくのがまずカッコいい。賛同してパッと集まる仲間がいるのもいい。ウーマンリブとか冷やかされても、「そうですけど何か?」って感じで肩肘張らずにフランクに取材に応じちゃうのもカッコいい。
 記者会見のための美容院で、ビリーは美容師のマリリンに担当してもらい、出会う。ここがまた素晴らしくイイ! ことさらな描写がなくても全然伝わるの、そうそう恋ってそうやって生まれて恋心ってそうやって伝わっちゃうものだよネ!ってのがもうたまらん。
 ビリーには夫がいて、女性とは初めて。マリリンにも彼氏はいるけれど、女性も好き。そんなふたりが…というのがまたイイ感じにリアルでイイ感じにロマンチックなのだ! キャー!! ちゃんとエッチでセクシーだけどポルノチックじゃないのもベッドシーンなのもイイ。
 一方、ボビーの方はことさらマッチョとかミソジニー男とかいうわけではない、あえて言うならフツーのおっさんです。ギャンブル依存症で常に小金が欲しくて、女とエキシビジョン・マッチしたら話題になって金取れるんじゃね?程度の思いつきでやっていて、その方がウケるからというだけであえて女性差別主義者的な言動をしてみせてマスコミを煽っているだけの、道化のお騒がせ男です。けれど最初の妻との間に生まれた息子はもう大人になっていてあきれられているし、今の妻ともギャンブル依存が原因で険悪ムード。そういう家庭不和の問題を抱えている中年、いや老年にさしかかっている男性なワケです。この描写もまた適格でコンパクトで上手い。
 ビリーの夫ラリーは、これまた細かい描写がないのでなんの仕事をしている人なのかとかはよくわからないのですが、ビリーがテニスを一番に考えていることにとても理解があるタイプで、彼女が支えを欲しがるときには帯同するし集中したがっているときには離れていられる、とてもスマートで優しい男性です。だから合流予定だった遠征先のホテルに、当然同室のつもりで訪れる。しかしバスルームに妻のものではない女性の下着を見つける。見つけられたことをビリーも気づく。するとラリーは別の部屋を取る、とだけ言って立ち去るのです。すごくないですか!? 欧米ってみんなこうなのかな、基本がここにあるのかな、ホントすごいよね!? まず、男にとって最大にショックなことのひとつに妻を寝取られることがあると思うんですけれど、妻を女に寝取られることはそれに輪をかけてショックだと思うんですよね。てか本当は相手の性別なんかどうでもいいことなはずなんですけどね。でもたいていの男はこうでしょう。そして愛を裏切られたとかより何より、ブライドが傷つけられたと思うものでしょう。それで日本の男だったらギャースカわめいて暴れてなんなら手が出そうなものじゃないですか、でもラリーはそんなことはしないんです、そこは紳士なんです。もう夫婦というものの在り方が根本的に違うんですよね。夫婦だから同室同衾が当然、でも心が離れたら別室が当然、という潔さと、そういう寝室とかバスルームとかの個人の尊厳をきちんと尊重する態度が素晴らしい。ズルズルベッタリしていないんですよね、ホント精神的にオトナだなあ、と思う。というかアンガー・コントロールがちゃんとしている、ということなのかなあ。デカ主語で語りますが、日本の男は幼稚すぎますよ…
 また、ビリーのライバルのマーガレットがいい。夫も小さい子供もいて、ママさん選手としてがんばっていて、ちょっとお堅いタイプで、ビリーとマリリンの恋仲をすぐ見抜き、そこは黙っているのがさすがオトナなんだけれど、一方で「なんてみだらな…」と唾棄せんばかりなの。この人にとっては不貞も同性愛も神に背くとんでもないことで、堕落の極みなんですね。女性がみんな一枚岩で団結できるとは限らない、という例を描くエピソードとしてとても上手い。
 マリリンとの恋愛で悩むビリーにマーガレットは勝ち、マーガレットがボビーと先に試合をするのだけれど、マーガレットはプレッシャーに負けて惨敗する。ボビーのおちゃらけた陽動に真面目なマーガレットは動揺させられた、というのもあるし、いかに彼女の側にシニアだろうと男性選手には勝てない、という思い込みもあったのでしょう。調子に乗るボビーに、ビリーが挑戦状を突きつける…事実なんだろうけれど本当によくできた筋書きです。
 ウェア管理をするスタッフ、ないしデザイナー?にゲイらしき男性がいるのもベタというかある種の偏見なのかもしれませんが、彼がビリーを応援するハグとか、ホント泣かされました。女でも男と同等に戦える、という証明と、同性同士でも異性同様に愛し合える、という主張を通すのとではレベルが違う、というかいっぺんには荷が重い。それでも…
 試合の描写がまた素晴らしいんですよ、本当にいい試合内容なの。私程度でもよくわかる試合展開で、演出としても正しい。気持ち良く拍手してしまいました…!
 ほぼほぼトレーニングをしていなかったビリーはバテバテで、筋トレから走り込みからコツコツ調整を続けてきたビリーはショットが冴え渡り、精神的にもタフです。自ずと試合は決まります、それがスポーツの真剣勝負というものなのです…!
 試合後のロッカールームで、ビリーがひとり泣くシーンがまた本当にいいです。ビリーはみんなのためにがんばったし、周りのみんなも彼女をいろいろと支えた。でも試合を戦ったのはビリーです、勝ったのもビリーなんです。勝利も、それによる寂しさや責任や孤独も、全部ビリーひとりのもの。嬉しいけど怖い、くだらない、虚しい…みたいな、笑っているとも泣いているともつかない、なんとも言えない表情で静かに座り込むビリーの描写が本当に素晴らしい。名シーンだと思いました。
 一方、ボビーのロッカールームには別れた妻が現れます。これもいい。ある種の男性にはやはり女性が必要で、それは普通に認められていいことだとも思うからです。
 ビリーがお祭り騒ぎの表彰式に出て行くところで映画は終わり、後日談がテロップで語られます。ビリーはラリーと離婚して、マリリンとカップルになったこと。ラリーが再婚でもうけた子供のゴッドマザーになったこと。その後も男女格差是正やLGBTQ問題に声を上げ活動し続けたこと。ボビーが妻と復縁したこと…
 いい映画だなあ。でもこれ50年前、半世紀前の話なんですよ。ここからあまり世界は前進していないのでは? イヤ欧米はまだマシでちゃんと進歩しているのかな、北欧なんかは本当にあらゆることがほぼほぼ男女平等になっているんだそうですよね。翻って本邦…ホント悲しくなります。やはりとりあえずクオーター制ってのは必要なんじゃないのかなー。とにかくまず数ですよ、数。質が…とか男は必ず言うけど、今だって男だってだけで質の低い人間が席に座ってたりするんだから同じことです。とにかく半分どかせ、よこせって話なんですよ。
 差別はどんなものでも問題で、重要度の軽重なんかない。でもまず女性差別から撤廃しましょう。あらゆるマイノリティの中で女性というのは最大のものです。単純な数だけなら男性よりわずかに多いんですしね。まず一番大きくわかりやすいものから、それがとっかかり。それができて初めて、他のことも可能になっていくようなところが、残念ながらあるんだと思うのです。
 それなのに、「国際女性デー」ですら、女性を始めあらゆる人が…とか言って「女性」をなかったことにしようとする、いないものとしようとする。どんだけ見たくないねん、とあきれますよね。まず見ろ、目を背けるな。女の話をしてるんだ、女の話をしようぜ。ノンバイナリーがとかトランスがとかはいいの、とにかくまず女。まずそこから。そこが第一歩。
 そんなことを改めて考えた一日なのでした。
 私は性差別に反対します。私はフェミニストです。すべての人の人権を尊重し、自分のことも尊重されて生きていきたいです。
 今後ともよろしくお願いいたしますです。




 
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『冬のライオン』

2022年03月08日 | 観劇記/タイトルは行
 東京芸術劇場、2022年3月6日13時。

 イングランド国王ヘンリー二世(佐々木蔵之介)は多くの戦果により領土を広げてきた。だが広大な領地アキテーヌを持つ歳上の妻・エレノア(高畑淳子)はヘンリーに反旗を翻したことで幽閉の身に。さらに人質として送られてきた先代フランス王の娘アレー(葵わかな)は美しく成長し、ヘンリーの愛妾となっていた。1183年のクリスマス、ヘンリーは妻と3人の息子たちを城に集める。そこにアレーの異母弟で現フランス王のフィリップ二世(水田航生)も現れ、「領土を返還するか、アレーをヘンリーの後継者と結婚させるか選ぶ年限が来た」と迫る…
 作/ジェームズ・ゴールドマン、翻訳/小田島雄志、演出/森新太郎。1966年ブロードウェイ初演、全2幕。

 68年の映画ではヘンリーがピーター・オトゥール、エレノアがキャサリン・ヘプバーンでリチャード(加藤和樹)はアンソニー・ホプキンズだったそうな。日本でも山崎努と岸田今日子、平幹二朗と麻実れいなどで上演されてきたそうです。私はタイトルだけ知っていて、ずっと観たいと思っていた作品でした。
 私は確か中学生のころにこのプランタジネット朝にハマり(オタクですんません…)、アリエノール・ダキテーヌは私の中では大スターです。プランタジネットの開祖はこのヘンリー二世で、その父ジェフリーが戦地に行くときに帽子につけていたエニシダ(プランタ・ゲニスタ)に由来します。以来リチャード二世の治世まで続き、その後『PRINCE OF ROSES』の薔薇戦争に至るのでした。
 この戯曲は20世紀のアメリカ人の手によるものですが、シェイクスピアの歴史劇に触発されているのだろう、とのこと。私が考えるとてもお芝居らしいお芝居で、おもしろく観ました。役者は7人、最低限の舞台転換、台詞劇。場の切れ目にタペストリー調の幕がいちいち引かれるのも雰囲気を出していてとてもよかったです。簡素なセット(美術/堀尾幸男)も素晴らしい。そしてヘンリーとエレノアは毛皮をまとったりしているしアレーは肩なんか出してチュールも引いたプリンセスなお衣装なのに、三王子と元王子にして若きフランス王フィリップはスーツ(衣裳/ゴウダアツコ)というのがニクい! というかジョン(浅利陽介)なんかリーゼントに黒の革ジャンですけどね。フィリップが白の三つ揃え、リチャードはグレーのジャケットに黒パンツ、メガネ!でジェフリー(永島敬三)は黒のスーツにネクタイ、というのがもうハマりすぎてサイコーでした。
 ヘンリー夫妻は血筋としてはフランス人の、けれど継承権的にたまたまイングランド国王夫妻になったような人たちで、当時の領土もイングランドより大陸側に多く、物語の舞台も今はフランスのシノン城です。そこで行われる家族会議というか相談というか論戦というかなんというか…は、二国間の紛争や戦争や取引や契約にまつわるある種血生臭いものなのですが、所詮は家族喧嘩であり夫婦漫才のようでもあります。膨大な台詞で紡がれるシニカルでシュールなペーソスあふれるせつないコメディ…堪能しました。
 ライオンとはヘンリーのことで、今日にまで至る英国王室の紋章に初めて獅子を持ち込んだのが彼だったそうです。そして冬とは人生の晩年、末期を意味します。だから主人公、タイトルロールはヘンリーです。でもお話の始めこそ彼とアレーの場面でしたが、ラストは彼とエレノアで締めたので、何か夫婦ふたりともを示すタイトルにしてもよかったのではないかしらん、とも思いました。
 だってやっぱり男ひとりでは何もできないんですよ。妻に息子を産んでもらって跡を継いでもらえないと、何も残らない。何を得ようと築こうと、墓場へは持っていけないのですから。それにヘンリーはアレーにベタ惚れで年上の古女房エレノアに辟易しているように見えて、アレーを全然尊重していないようでもあるしエレノアには執着しているようでもある。なので夫婦の物語として仕上げてもいいのではないのかな、と思ったのです。一対の男女からしか次の世代の人間は生まれない、継いでいってもらわなければ何もかも雲散霧消する。人間は永遠には生きられないのだから。なのにこのヘンリーはリチャードを毛嫌いしジョンを溺愛し、さりとて結局は自分が一番で何も手放そうとしない。じたばた駄々っ子のように暴れるだけで、何も進まないし何も解決しない一夜の物語、それがこのお話です。ミッドライフクライシスのお話でもあるようですが、当時50歳といえばもういつ亡くなってもおかしくない老齢とみなされていたでしょう。事実ヘンリーのこの先は長くない、けれどエレノアは80歳とかまで生き長らえたのでした。となるとやはりこれはヘンリーの物語、なのかなあ…ともあれ、わあわあ喧嘩しても何も解決しないし前進もしない、とても人間臭いお話でした。

 佐々木蔵之介は絶妙でしたね。おっさんではある、でも若々しくは見える、でもすごーくしょうもない、でもそこがまたチャーミングでもある。王様らしくふんぞり返っているようなことはほぼなくて、跳んだり跳ねたり転げ回ったりと大忙し。台詞の量といい大変な労働量でしょうが、ものすごい集中力で舞台を引っ張っていたと思います。素晴らしかったです。
 高畑淳子もいつでも上手くてどんなキャラにもなれる人で大好きですが、声とか言い回しがターコさんと同じ枠の女優さんだよね、とふと気づきました。この人の方がからっとしているけれど…これまた怪演と言っていい素晴らしさだったと思います。
 それからすると初ストプレの葵わかなはちょっと声がキンキンしてかつ声量が足りないかな…と思っていたらまさかまさかの二幕の豹変ぶりが圧巻で、前半は計算のうちだったのかと舌を巻きました。アレーは単にエレノアと対照的な役、というだけではない大きな意味のある女性像だと思います。ある種、愛に生きているようで現代の観客が共感しやすいかもしれない。でも当人が気づいていなくてもこれはストックホルム症候群に近い、立派な虐待ですよね。それでもこういう立場のこういう女性には、こういう生き方しかできない時代だったのです…そのこともちゃんと背後に示せていた、いい演技だったと思いました。
 加藤和樹、かーっこいーい! 声が良くてデカくて押し出しあって居丈高な軍人っぷり、サイコーでした。でもいじましい次男なんだよねホントは、そこがいいキャラでした。ホントは三男なんだけど、長男が夭逝して、次男から繰り上がった若ヘンリーの陰でずっと苦しかったのでしょう。さらにものごころついたころに両親が不仲になり、彼は母親についたものの彼女がものすごく何かをしてくれるわけでもなく、父親は末っ子ジョンを溺愛して…自分を認めてもらいたくて、愛してもらいたくて、必要としてもらいたくて、もがいてもがいた人なんですよね。上手い! アレーのお姫様抱っこからの俵担ぎもさすがでした。
 でも真の真ん中っ子ジェフリーがやはり私のツボでした。母に愛され後継者としてみなされているリチャードと、父に愛され自由気ままにわがままに甘えまくり暴れまくるジョンの間で、まあまあそつなくちゃんとしているからこそ放任され無視されてきた彼…たまらんかったなー、そしてこの人も声が色っぽかった。さすが柿食う客…!
 浅利陽介を舞台で観るのは私は久々な気がしましたが、この人もまた上手いんですよね…実際以上に小柄に見せているのも上手いと思いました。
 そこへ長身の水田くんがまた効いてくるんだ…! しかもまた絶妙な若造感が上手い。そしてなんなのリチャードとのBLは! 手紙を書かなかったのは返事が来ないと思ったからだ、って何ソレ萌える! そりゃフィリップは国王ですものさっさと結婚しちゃうよねー! はーたまらん…

 と、みんな上手くて素晴らしい舞台だったのでした。
 ちなみにプログラムがサイズがコンパクトででも内容は必要十分かつ充実していて良心的にお安かったのも素晴らしかったです。表紙の金のドットはツリーになっているんですね、オシャレ!
 そういえばエレノアがツリーの下に置いたプレゼントは結局開けられなかったのかしらん、クリスマスの朝はみんなそれどころではなかったような気が…それもまた、せつないです。この作品を象徴する、良きアイテムとなっているのかもしれません。




 




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