宝塚歌劇雪組大劇場公演『夢介千両みやげ/Sensational!』3月20日11時を観てきました。いただいたお席は2階前方センターブロックやや下手寄り、とても観やすかったです。ショーのフォーメーションがたいそう美しく見えました。
お芝居の原作小説は未読。申し訳ありませんがそもそも知らない小説、作家だったので、予習する気にも特になりませんでした。なんとなく痛快娯楽活劇とか人情喜劇みたいな世界観であることは察せられたので、まあノー知識で行っても十分わかるものになるだろう、と安心していたというのもあります。実際に初日の評判からは「頭を使わなくていい」「誰も死なない」「良いダーイシ」といったものが聞こえてきたので、これが純粋な褒め言葉なのかは怪しいところですが(笑)、まずは自分の目で見て確かめよう…と出かけてきたのでした。
そして実際ノー予習でまったく問題なくわかり、楽しめる仕上がりだったと思います。というか舞台なんてすべからくこうあるべきなんだけれどさ本来。ただ、じゃあそこから原作小説を読んでみようとなったかというと私はそれはなかったわけで、その底の浅さというかそれこそ世界観の軽さが私は気になりました。
悲劇の方が難しくて高尚で重厚で価値がある…という考え方は間違っていると私は思います。ダーイシはこの考え方にハマってしまっていると思う。だから明るく楽しく万人が喜ぶ喜劇を作ろうとしたのだと思うのだけれど、でも喜劇を舐めているのだと思うのです。だってチェーホフだってワイルドだって自作を喜劇としているんだぜ? 喜劇だから、コメディだからって人間の感情の機微を疎かに扱っていいということではない。軽やかなのと薄っぺらいのとは違う。人間というものに対する解像度がもっと高くクリアな喜劇というものは存在するし、宝塚歌劇でも十分作れるはずだと私は考えています。たとえば、これまた原作映画未見で申し訳ないのですが、そしてたまたまか同じ雪組でしたが、『幕末太陽傳』はもっと人間の描き方がちゃんとしていたと思います。あちらは死人が出ていたけど…でも、なーこたんとダーイシの差を感じます。ダーイシはコメディ、喜劇となるとドリフのコントみたいなものしか思い描けないんだと思う。それでは大人の鑑賞には耐えられないと私は思います。
華やかでわかりやすいプロローグは、いい。でもすぐに私が「ダメだこりゃ」となったのは、お銀が夢介に惚れたことを自覚するくだりの演出です。下手花道とっつきに出てきたひらめちゃんに七色かなんかのライトを当てて「キラ~ン」みたいな効果音入れて(記憶違いだったらすみません)、恋に落ちたと自覚する描写としたことです。別にお銀みたいな肩書き持ち(「肩書き」が意味するものが現代とは違うので、何か説明がもっとあってもよかったと思う)の女がこういう経緯で夢介みたいな男に岡惚れすること自体は、十分ありえると私も思います。というかそうでないと始まらない話だし。でももっと普通に、ちゃんと、恋する演技をしっとり芝居させたって別にいいワケじゃん。そのときめき芝居に観客の心もときめくんじゃないの? なんで笑かそうという方向に持ってくの?
つまりダーイシ自身がこんな恋はくだらない、嘲笑していいものだって思ってるってことなんですよ、その表れなんですよ。作家がキャラクターや作品世界に愛もリスペクトも持っていないのが丸わかりなんです。もうその人間性が嫌。私がそもそもアンチ石田だってのもあるけれど、わかりやすい差別表現や下卑た下ネタがなかったとしたって(穿ち過ぎかもしれないけれど貝については微妙だと思ったしそういう意図があるならかなり露骨で不快ではある…あと婉曲表現として今回初めて「肌を合わせる」という言葉を知ったのかもしれないが、いい気になって三度も四度も使いすぎで、ホントただのアタマ悪い中学生男子みたいだよなダーイシ…と思ったのでした。これは誹謗中傷ではなく正当な批評だと私は考えています)「今回は良いダーイシ」と言うのはどうだろう…と私は思いましたね。良かろうが悪かろうがダーイシはダーイシなのです。
それと、これは完全に原作準拠なんでしょうが、私は夢介がやっているバラ捲き施策に関してはあまりいいようには受け取れませんでした。生きたお金と死んだお金がある、というのはわかるけれど、お金に色があるじゃなし、金は金だろう、とつい思ってしまうというのもあります。これは私の心が汚れているのかもしれません。でもみんながみんなこの夢介の鷹揚さに感化されて真人間になっていってみんなハッピー、みたいなのはやっぱりちょっと嘘くさすぎやしないか? 百歩譲ってそういうことがあるんだとして、そういう形でしか人が改心することはないというなら、夢介みたいにお金をばらまける人間は現実にはほぼ絶対に存在しないのだからつまりこの世は闇のままってことにならないか、と私なんかは考えてしまうのでした。日本人ってお金というものに対して屈託があってちょっと正対しきれていないところがあるから、もっとこれくらい素直かつドライでいいんだぜ、ってことなのかもしれませんが…うぅーんどうだろう…
あと、「道楽修行」というのが実はよくわからないな、と感じました。主にアメリカなんかでは大学受験して合格したあと、すぐ進学せずに一年くらい休みを取って旅行したりなんたりしてから大学に行ったりしますが、あんなようなものかな?と思いはしたのですが…私の今の実家からすると入生田は知っている地名で、もちろん田舎なんだけどあんなに訛るような田舎かないうても神奈川県やぞ失礼な、とかこれまたナチュラルに失礼な地方差別をするのですが、ともかく夢介は地方の豪農の跡取り息子、ってことなんですよね? 私は実は「庄屋」というものの実態をよく理解していないのですが…実際には彼自身は田畑に出てつらい農作業をすることはない身分なのではないかしらん、乳母日傘の(ゆーちゃんさんは爺やだけど(笑)。てかそらとゆーちゃんさんはわかっちゃいたけど芝居が抜群に上手いね! 台詞や立ち居振る舞いに宿る情報量が圧倒的に多い!!)坊ちゃん育ちなわけですし。で、親が隠居するかはともかくとして夢介に本格的に家の仕事をさせるにあたり、その前に金を与え自由な期間を与えて、人生修行をしてきなさい、という意味で親は夢介を送り出したのではないのでしょうか。具体的に言うと要するに都会で呑む打つ買うみたいな遊びをひととおりしてみて、してみさえすればだいたいのことはわかるし飽きるしもういいやとも思えて、あとはいっさいそうした遊びはせず真っ当に家の仕事を継ぎ、でも世間というものも多少は知った大きな人物になる…というようなことを期待してのものだったのではないの? そんな「修行」を「道楽修行」と言ってみせる、ちょっと洒落たところのある父親だった、ということではないのかなあ?
でもこのあたり、なんの説明もないので、「道楽息子になるための修行ってことなの? なら総太郎に弟子入りすればよくね?」みたいになりません? 夢介(とその親)が何を見据えているのかがよくわからないままにただ金がばらまかれるので、それはお人好しのおせっかい故だとわかりはするのですが、彼の目的ってなんなんだろうね…とふと虚しくなってしまうんだと思うのです。観客は、観劇ができる程度には小金がある身分かもしれませんが、それこそ生活を始末してチケット代を捻出している人も多いだろうというのが今の不景気の世の中なのですよ。夢介が安易に大金を出すのに、少なくとも私はけっこうざらりとしたものを感じながら観たのでした。もっとバブルなころならまたもうちょっとウケ方も違ったのかもしれませんが…うううぅーむむ。
あとは、今すぐにでも改善できるところとして、お松に総太郎のいいところ、好きなところを語らせ、伊勢屋夫妻や総太郎にもお松のいいところを語らせ、要するに子供のためだけに結婚するのではない、としてくれ頼むから…という点を挙げたいと思います。
総太郎はしょーもないバカ坊だけど、あーさがやるから許せるんだし、実際あーさの役への愛嬌の持たせ方などとても上手いと思います。そしてひまりは狸メイクでも多少おてもやん気味でもちゃんと可愛い。でもお松は、顔と財産だけが目当てで総太郎に群がっている女たちとは違って本当に彼を愛しているんでしょう? ならどこをどう好きなのかってのを、一言二言の台詞でいいから足してほしい。そして伊勢屋夫妻も総太郎も、ただ跡取り息子の子供を孕んだ女だからお松を迎え入れるのではなくて、お松ならではの良さを買い愛し家族にしよう未来を共にしようとするのでしょうから、そういう台詞を足してほしい。現状、双方とも子供の話しかしていません。そういう出来婚は悲劇に終わり子供にも良くないことが多い、というのはすでに広く知られた厳然たる事実でしょう。宝塚歌劇が愛をないがしろにしてどーする。次の休演日明けからでいいからすぐ脚本に足してくれ頼む。
ま、そんなところでしょうか。
あとは、そらがホントいい仕事をしていて、その弟妹のぶーけたんとりなくるもめっちゃおいしいし、あやなちゃんの役は原作から変えられているそうで、花を持たせてもらって何よりだと思いました。その妻がともかというのもイイ! というかこのともかといい妃華ちゃんといい愛すみれといいもちろん夢白ちゃんといい、娘役にたくさん活躍の場があるのがいい! あがちんの役まわりもとてもイイと思いました(長袴の扱い、鮮やかでした!)。まなはる以下の悪役チームはちょっと『CH』と同じ役まわりになっちゃってるかな、とは感じましたが…
これから細かい小芝居も増えて、組ファンは楽しく通えるのかもしれません。咲ちゃんとひらめちゃんが終始ラフラブしているのもいじらしくて楽しいですしね。私は咲ちゃんはカッコイイ系の役の方が似合うのではないかと思っている派ですが、こういういい人系をやらせたくなる気持ちもわかりますしね。
新公は主役のあがちんは安定でまあいいとして(というかバウ主演までしているんだからもう新公は脇に回ってもよかったと思う…)華純ちゃんのお銀に話題の華世くんの総太郎というのは注目かもしれませんね。こちらも楽しみです!
ショーはいつもの中村Bで、それこそ雪組はしょっちゅう当たっている気がするので新鮮みがないこと甚だしかったです。てかプログラムでそらがBショー初めてとか言ってんだよどんだけ宙組に来てくれてないねん! 偏りすぎなの、良くないと思います。
あとはホントいつものBショーで…とりあえずスクリーンセーバーはもうやめようよ無意味だよ経費の無駄遣いだよ邪魔なだけだよ。あと銀橋渡りの大盤振る舞いはまあいいとして、フィナーレのワンモア中詰めみたいなのもちょっともう飽きたかなー。要するに手抜きして生徒のスター力に頼っているだけに見える。もちろん生徒にはいい機会だと思うしファンも楽しいかもしれないけれど、もうちょっと手を入れたものが私は観たいのです。ストーリー仕立ての場面があーさと夢白ちゃんがメインだった場面くらいしかなくて、あとはスター構成的にもダンスの種類的にも似ていてデジャブ感があってとにかく場面のコンセプト的に目新しさがなくて、ちょっとどうかなと感じてしまいました。そらがきちんと使われていることやあやなちゃんへの餞別が手厚くあるのはいいなと感じたのですが…あとプロローグ、番手スターが銀橋渡りしているときの本舞台が、娘役がピンでセンターで男役をズラリ従えてバリバリ踊っていたところ!(ひまりと夢白ちゃんの踊り継ぎだったかな?)てか娘役はひまりに夢白ちゃんはもちろん、お芝居に続いて妃華ちゃんの扱いが良くて、私は以前からずっと好きだったので嬉しい!となりました。ともかにもどこかで歌わせてほしかったなー。あと何回かあったカゲソロやカゲデュエットはなんか不発だった気がする。別にカゲである必要ないんじゃないかな、とか思いました。
おっと!と注目したのはひらめちゃんの仕上がりっぷりで、特にデュエダンは背中が開いたドレスでしたがまあ美しいこと! やはり上級生トップ娘役だけのことはある! そういえば男役上級生陣を従えての一場面もあり、今までひらめちゃんではこういう場面がなかったように思ったのでいいぞいいぞと気分がアガりました。
パレードは、確かにあやなちゃんは順番はどこであれひとりで階段降りさせてあげてもよかったのでは…とは思いましたね。はばまいちゃん(ロケットセンター可愛かった!)とか使えば構成はまだまだ変えられたでしょう。てかすわっち挟んでひまりと夢白ちゃんの3人で降りたところ、上手は夢白ちゃんなんだふーん…と思いました心が狭くてすみません。でも次の『心中』のヒロインはひまりがニンだと思うよ…!
まあでもショーもそらが加わったことでホント層が厚くなったと思いました。あいかわらず団体戦なんで下級生が識別してもらったり頭角を現すのはけっこう大変そうですが、がんばっていっていただきたいものです。わあわあ言いましたが、組ファンが楽しく通えると判断しているならそれでいいかとも思っています。
次に行くときはもう桜は終わっている頃かな…進化を楽しみにしています!
お芝居の原作小説は未読。申し訳ありませんがそもそも知らない小説、作家だったので、予習する気にも特になりませんでした。なんとなく痛快娯楽活劇とか人情喜劇みたいな世界観であることは察せられたので、まあノー知識で行っても十分わかるものになるだろう、と安心していたというのもあります。実際に初日の評判からは「頭を使わなくていい」「誰も死なない」「良いダーイシ」といったものが聞こえてきたので、これが純粋な褒め言葉なのかは怪しいところですが(笑)、まずは自分の目で見て確かめよう…と出かけてきたのでした。
そして実際ノー予習でまったく問題なくわかり、楽しめる仕上がりだったと思います。というか舞台なんてすべからくこうあるべきなんだけれどさ本来。ただ、じゃあそこから原作小説を読んでみようとなったかというと私はそれはなかったわけで、その底の浅さというかそれこそ世界観の軽さが私は気になりました。
悲劇の方が難しくて高尚で重厚で価値がある…という考え方は間違っていると私は思います。ダーイシはこの考え方にハマってしまっていると思う。だから明るく楽しく万人が喜ぶ喜劇を作ろうとしたのだと思うのだけれど、でも喜劇を舐めているのだと思うのです。だってチェーホフだってワイルドだって自作を喜劇としているんだぜ? 喜劇だから、コメディだからって人間の感情の機微を疎かに扱っていいということではない。軽やかなのと薄っぺらいのとは違う。人間というものに対する解像度がもっと高くクリアな喜劇というものは存在するし、宝塚歌劇でも十分作れるはずだと私は考えています。たとえば、これまた原作映画未見で申し訳ないのですが、そしてたまたまか同じ雪組でしたが、『幕末太陽傳』はもっと人間の描き方がちゃんとしていたと思います。あちらは死人が出ていたけど…でも、なーこたんとダーイシの差を感じます。ダーイシはコメディ、喜劇となるとドリフのコントみたいなものしか思い描けないんだと思う。それでは大人の鑑賞には耐えられないと私は思います。
華やかでわかりやすいプロローグは、いい。でもすぐに私が「ダメだこりゃ」となったのは、お銀が夢介に惚れたことを自覚するくだりの演出です。下手花道とっつきに出てきたひらめちゃんに七色かなんかのライトを当てて「キラ~ン」みたいな効果音入れて(記憶違いだったらすみません)、恋に落ちたと自覚する描写としたことです。別にお銀みたいな肩書き持ち(「肩書き」が意味するものが現代とは違うので、何か説明がもっとあってもよかったと思う)の女がこういう経緯で夢介みたいな男に岡惚れすること自体は、十分ありえると私も思います。というかそうでないと始まらない話だし。でももっと普通に、ちゃんと、恋する演技をしっとり芝居させたって別にいいワケじゃん。そのときめき芝居に観客の心もときめくんじゃないの? なんで笑かそうという方向に持ってくの?
つまりダーイシ自身がこんな恋はくだらない、嘲笑していいものだって思ってるってことなんですよ、その表れなんですよ。作家がキャラクターや作品世界に愛もリスペクトも持っていないのが丸わかりなんです。もうその人間性が嫌。私がそもそもアンチ石田だってのもあるけれど、わかりやすい差別表現や下卑た下ネタがなかったとしたって(穿ち過ぎかもしれないけれど貝については微妙だと思ったしそういう意図があるならかなり露骨で不快ではある…あと婉曲表現として今回初めて「肌を合わせる」という言葉を知ったのかもしれないが、いい気になって三度も四度も使いすぎで、ホントただのアタマ悪い中学生男子みたいだよなダーイシ…と思ったのでした。これは誹謗中傷ではなく正当な批評だと私は考えています)「今回は良いダーイシ」と言うのはどうだろう…と私は思いましたね。良かろうが悪かろうがダーイシはダーイシなのです。
それと、これは完全に原作準拠なんでしょうが、私は夢介がやっているバラ捲き施策に関してはあまりいいようには受け取れませんでした。生きたお金と死んだお金がある、というのはわかるけれど、お金に色があるじゃなし、金は金だろう、とつい思ってしまうというのもあります。これは私の心が汚れているのかもしれません。でもみんながみんなこの夢介の鷹揚さに感化されて真人間になっていってみんなハッピー、みたいなのはやっぱりちょっと嘘くさすぎやしないか? 百歩譲ってそういうことがあるんだとして、そういう形でしか人が改心することはないというなら、夢介みたいにお金をばらまける人間は現実にはほぼ絶対に存在しないのだからつまりこの世は闇のままってことにならないか、と私なんかは考えてしまうのでした。日本人ってお金というものに対して屈託があってちょっと正対しきれていないところがあるから、もっとこれくらい素直かつドライでいいんだぜ、ってことなのかもしれませんが…うぅーんどうだろう…
あと、「道楽修行」というのが実はよくわからないな、と感じました。主にアメリカなんかでは大学受験して合格したあと、すぐ進学せずに一年くらい休みを取って旅行したりなんたりしてから大学に行ったりしますが、あんなようなものかな?と思いはしたのですが…私の今の実家からすると入生田は知っている地名で、もちろん田舎なんだけどあんなに訛るような田舎かないうても神奈川県やぞ失礼な、とかこれまたナチュラルに失礼な地方差別をするのですが、ともかく夢介は地方の豪農の跡取り息子、ってことなんですよね? 私は実は「庄屋」というものの実態をよく理解していないのですが…実際には彼自身は田畑に出てつらい農作業をすることはない身分なのではないかしらん、乳母日傘の(ゆーちゃんさんは爺やだけど(笑)。てかそらとゆーちゃんさんはわかっちゃいたけど芝居が抜群に上手いね! 台詞や立ち居振る舞いに宿る情報量が圧倒的に多い!!)坊ちゃん育ちなわけですし。で、親が隠居するかはともかくとして夢介に本格的に家の仕事をさせるにあたり、その前に金を与え自由な期間を与えて、人生修行をしてきなさい、という意味で親は夢介を送り出したのではないのでしょうか。具体的に言うと要するに都会で呑む打つ買うみたいな遊びをひととおりしてみて、してみさえすればだいたいのことはわかるし飽きるしもういいやとも思えて、あとはいっさいそうした遊びはせず真っ当に家の仕事を継ぎ、でも世間というものも多少は知った大きな人物になる…というようなことを期待してのものだったのではないの? そんな「修行」を「道楽修行」と言ってみせる、ちょっと洒落たところのある父親だった、ということではないのかなあ?
でもこのあたり、なんの説明もないので、「道楽息子になるための修行ってことなの? なら総太郎に弟子入りすればよくね?」みたいになりません? 夢介(とその親)が何を見据えているのかがよくわからないままにただ金がばらまかれるので、それはお人好しのおせっかい故だとわかりはするのですが、彼の目的ってなんなんだろうね…とふと虚しくなってしまうんだと思うのです。観客は、観劇ができる程度には小金がある身分かもしれませんが、それこそ生活を始末してチケット代を捻出している人も多いだろうというのが今の不景気の世の中なのですよ。夢介が安易に大金を出すのに、少なくとも私はけっこうざらりとしたものを感じながら観たのでした。もっとバブルなころならまたもうちょっとウケ方も違ったのかもしれませんが…うううぅーむむ。
あとは、今すぐにでも改善できるところとして、お松に総太郎のいいところ、好きなところを語らせ、伊勢屋夫妻や総太郎にもお松のいいところを語らせ、要するに子供のためだけに結婚するのではない、としてくれ頼むから…という点を挙げたいと思います。
総太郎はしょーもないバカ坊だけど、あーさがやるから許せるんだし、実際あーさの役への愛嬌の持たせ方などとても上手いと思います。そしてひまりは狸メイクでも多少おてもやん気味でもちゃんと可愛い。でもお松は、顔と財産だけが目当てで総太郎に群がっている女たちとは違って本当に彼を愛しているんでしょう? ならどこをどう好きなのかってのを、一言二言の台詞でいいから足してほしい。そして伊勢屋夫妻も総太郎も、ただ跡取り息子の子供を孕んだ女だからお松を迎え入れるのではなくて、お松ならではの良さを買い愛し家族にしよう未来を共にしようとするのでしょうから、そういう台詞を足してほしい。現状、双方とも子供の話しかしていません。そういう出来婚は悲劇に終わり子供にも良くないことが多い、というのはすでに広く知られた厳然たる事実でしょう。宝塚歌劇が愛をないがしろにしてどーする。次の休演日明けからでいいからすぐ脚本に足してくれ頼む。
ま、そんなところでしょうか。
あとは、そらがホントいい仕事をしていて、その弟妹のぶーけたんとりなくるもめっちゃおいしいし、あやなちゃんの役は原作から変えられているそうで、花を持たせてもらって何よりだと思いました。その妻がともかというのもイイ! というかこのともかといい妃華ちゃんといい愛すみれといいもちろん夢白ちゃんといい、娘役にたくさん活躍の場があるのがいい! あがちんの役まわりもとてもイイと思いました(長袴の扱い、鮮やかでした!)。まなはる以下の悪役チームはちょっと『CH』と同じ役まわりになっちゃってるかな、とは感じましたが…
これから細かい小芝居も増えて、組ファンは楽しく通えるのかもしれません。咲ちゃんとひらめちゃんが終始ラフラブしているのもいじらしくて楽しいですしね。私は咲ちゃんはカッコイイ系の役の方が似合うのではないかと思っている派ですが、こういういい人系をやらせたくなる気持ちもわかりますしね。
新公は主役のあがちんは安定でまあいいとして(というかバウ主演までしているんだからもう新公は脇に回ってもよかったと思う…)華純ちゃんのお銀に話題の華世くんの総太郎というのは注目かもしれませんね。こちらも楽しみです!
ショーはいつもの中村Bで、それこそ雪組はしょっちゅう当たっている気がするので新鮮みがないこと甚だしかったです。てかプログラムでそらがBショー初めてとか言ってんだよどんだけ宙組に来てくれてないねん! 偏りすぎなの、良くないと思います。
あとはホントいつものBショーで…とりあえずスクリーンセーバーはもうやめようよ無意味だよ経費の無駄遣いだよ邪魔なだけだよ。あと銀橋渡りの大盤振る舞いはまあいいとして、フィナーレのワンモア中詰めみたいなのもちょっともう飽きたかなー。要するに手抜きして生徒のスター力に頼っているだけに見える。もちろん生徒にはいい機会だと思うしファンも楽しいかもしれないけれど、もうちょっと手を入れたものが私は観たいのです。ストーリー仕立ての場面があーさと夢白ちゃんがメインだった場面くらいしかなくて、あとはスター構成的にもダンスの種類的にも似ていてデジャブ感があってとにかく場面のコンセプト的に目新しさがなくて、ちょっとどうかなと感じてしまいました。そらがきちんと使われていることやあやなちゃんへの餞別が手厚くあるのはいいなと感じたのですが…あとプロローグ、番手スターが銀橋渡りしているときの本舞台が、娘役がピンでセンターで男役をズラリ従えてバリバリ踊っていたところ!(ひまりと夢白ちゃんの踊り継ぎだったかな?)てか娘役はひまりに夢白ちゃんはもちろん、お芝居に続いて妃華ちゃんの扱いが良くて、私は以前からずっと好きだったので嬉しい!となりました。ともかにもどこかで歌わせてほしかったなー。あと何回かあったカゲソロやカゲデュエットはなんか不発だった気がする。別にカゲである必要ないんじゃないかな、とか思いました。
おっと!と注目したのはひらめちゃんの仕上がりっぷりで、特にデュエダンは背中が開いたドレスでしたがまあ美しいこと! やはり上級生トップ娘役だけのことはある! そういえば男役上級生陣を従えての一場面もあり、今までひらめちゃんではこういう場面がなかったように思ったのでいいぞいいぞと気分がアガりました。
パレードは、確かにあやなちゃんは順番はどこであれひとりで階段降りさせてあげてもよかったのでは…とは思いましたね。はばまいちゃん(ロケットセンター可愛かった!)とか使えば構成はまだまだ変えられたでしょう。てかすわっち挟んでひまりと夢白ちゃんの3人で降りたところ、上手は夢白ちゃんなんだふーん…と思いました心が狭くてすみません。でも次の『心中』のヒロインはひまりがニンだと思うよ…!
まあでもショーもそらが加わったことでホント層が厚くなったと思いました。あいかわらず団体戦なんで下級生が識別してもらったり頭角を現すのはけっこう大変そうですが、がんばっていっていただきたいものです。わあわあ言いましたが、組ファンが楽しく通えると判断しているならそれでいいかとも思っています。
次に行くときはもう桜は終わっている頃かな…進化を楽しみにしています!