駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

マイ宝塚版『ベルばら』論その2

2013年06月12日 | 日記
 2回目にして早くもちょっと脱線しますが、生では観劇していない外伝『ベルばら』3本を先日スカステで見たので、それについて少し考えてみました。
 正確に言うと、全国ツアーでの雪『ジェローデル編』と花『アラン編』、星『ベルナール編』、そして中日公演の宙『アンドレ編』ですね。
 『アンドレ編』については、花組本公演版では観ています。もちろんぽかんとした記憶しかないし、「呪いのどんぐり編」呼ばわりしています。
 というかアンドレというのはアントワネット、オスカル、フェルゼンと並ぶ『ベルばら』の主要登場人物なのであり、これをフィーチャーして外伝を仕立てる、ということにそもそも無理があると思うのです。
 男役偏重の宝塚歌劇のこととて、数々の不備なヒロイン役を観てきましたが、このマリーズという役はワースト10にかなりランクイン確実な役なのではないでしょうか。オスカルに運命的に結び付けられているアンドレというキャラクターに対し、故郷での淡い初恋相手、というだけの立場はいかにも弱い。ブイエ将軍の養女になったり再会したアンドレに対しある種の脅迫めいた取引を持ちかける展開といい、あまりにも哀れな扱いのヒロインでありました。許しがたい。
 というワケでこれは別枠。
 他の3本では、どうやらベルナール編の評判がいいようですが、私はジェローデル編が好きでした。
 ちなみにアラン編はこれまたヒロインがひどい。主要登場人物四人がきちんと全員出ていないという点で私は91年月『オスカル編』と06年雪『オスカル編』、今年の月『オスカルとアンドレ編』(いずれも出ていないのは本来タイトルロールたるべきアントワネット)の評価を激しく下げたい考え方の持ち主ですが、その忌むべき月『オスカル編』でヒロイン役とされたディアンヌがここでもまたしてもヒロイン役です。
 個人的にはディアンヌというのはとても魅力的だしドラマのある素敵なキャラクターだと思っています。悲劇のヒロインでもある。しかしアラン編のヒロインとなると、要するに相手役とは兄妹だということです。アヤネは近年まれに見るそれはそれは妹役の似合う、「お兄様」「お兄さん」「お兄ちゃん」という台詞に情感の漂うそれはそれは美しいトップ娘役でしたがしかし、だからってそういう問題ではないだろう。
 ラブロマンスを展開させるべき宝塚歌劇において、トップコンビが兄妹役という不毛さのマイナスは計り知れません。しかも…死んでる…
 ただでさえ台詞をしゃべらされるだけで芝居らしい芝居のしどころがないこの植田歌舞伎において、アランの目にだけしか見えない亡霊役として、アランとふたりきりの場面にだけ茫洋と出てきて助言らしきことを言うだけ言って去っていくこのヒロインの不憫さたるや、どんぐりマリーズといい勝負でした。もはや泣くしかない…
 アラン編については、お話がどうとかこうとか論評するに値もしない残念な出来だと言ってしまっていいでしょう。
 それこそマリーズではないけれど、アランの幼なじみの女性キャラクターとかを作ってヒロインに仕立てた方がまだよかったのではないかなー。アランは貴族だけれど貧乏な育ちで、片や彼女は裕福な平民の娘だったりするの。ディアンヌとは仲良しで…とかさ。アランが入隊して離れ離れになって、オスカルに揺れたりして、でも革命がなされて帰ってきて再会して…とかさ。なんとでもできただろうに…
 それからすると、ベルナール編のヒロインはロザリーであり、これは原作でもきちんと結婚までに至る正式な幸福なカップルの片割れなのですから、そういう点ではちゃんとしています。ロザリーは『ベルばら』本公演でもトップ娘役が演じることもある(その是非はともかくとして)大きな役ですしね。
 そしてジェローデル編のヒロインとされたのはソフィアでした。フェルゼンの妹です。原作でもいくらも出番のないチョイ役ですが、印象的で個性的なキャラクターでもあり、これは上手いと思いました。
 思うに私がジェローデル編を高く評価するのは、私がジェローデルというキャラクターが好きだからとかミズの演じたジェローデルがいかにも原作から抜け出たような美しさとスノッブな鼻持ちならなさと貴族としてのある種の矜持を持っていた素敵な役だったからというのを別にしても、この作品が「外伝」と名乗るだけのアイディアに溢れた、原作の要素を上手く使ったいい番外編になっていたからだと思います。
 それでいうとベルナール編の方は、ベルナールとロザリーという、これだけ本編でもメジャーなキャラクターを主役に置いておきながら、意外にストーリー展開がふるわなかったのが残念だったのでした。一幕ものなんだし、革命後の、革命が理想と違って暗然とした部分なんか描かないで、革命前の、ヒーローとしての黒い騎士とかロザリーのジャンヌやポリニャックやラ・モリエールとのドラマの部分を描けばよかったのに…で、断頭台に向かうアントワネットを見送ってふたりで抱き合って幕、でもよかったのに。
 アランと違ってベルナールはオスカルを女性として好もしく思うようなくだりは原作にはまったくないけれど、そんなふうにしてベルナールとオスカルとロザリーの奇妙な三角関係にしてもおもしろかったと思うんですよね。オスカルというのは言い方はアレですが使い勝手のいいモテモテの総受けキャラクターなんだし、アントワネットが出ないことがあってもフェルゼンが出ないことがあってもアンドレが出ないことがあってもオスカルが出ないバージョンはないくらいの大人気キャラクターなんだから、出す以上上手く使うに越したことはありません。ああもったいない。

 というワケでジェローデル編です。
 ナポレオン暗殺未遂犯を追ったブイエ将軍(ご存命だったのですね!となんとなく驚きましたよ)がソフィアのいる修道院にやってくるところから始まって、お話は革命以前に遡って始められる構成。
 それでも宮廷の貴婦人たちは革命騒ぎなんかよりオスカルの結婚話に気もそぞろ、という場面から本筋は始まります。
 シッシーナ夫人とかモンゼット夫人とかはともかくとして、私が娘役ちゃんたちがただきゃいきゃいやっているのを見るのが好きというのもありますが、宮廷の貴婦人たちが、特に若いお嬢さんたちがオスカルのファンできゃいきゃいやっているのは原作にもある部分であり、微笑ましいし自然なことでもあると思うので、私はこの場面が可愛くて好きです。意外に今まで本公演にはなかったしね。「♪オープランタン」とかはただ春の訪れを歌ってはしゃぐ場面で、オスカルにきゃいきゃい言うのはマダム連、とうパターンばかりだったからなあ。
 で、彼女たちの台詞で、ジャルジェ将軍がオスカルを結婚させようとしていること、第一の候補はジェローデルであるらしいこと、ジェローデルは女嫌いで通っていて、でもスウェーデンから来ているちょっと変わり者のお嬢さんとされているソフィアとだけは話が合うらしいこと…などが説明され、で、彼女たちは「オスカル様の結婚なんて断固反対!」と騒ぐのです。可愛いなあ。
 というワケで台詞で説明されてしまうのですが、本当ならジェローデルとソフィアの出会いの場面、そして心が交流するさまが見られる場面があるとベストでしたね。
 ソフィアは留学途中だったか旅行途中だったかでパリでオスカルと偶然出会う場面が原作にもあります。故郷の生家でおとなしく花嫁修業だけに励むタイプの女性ではなくて、兄同様に国外に出て見聞を広める機会を持った、外国語も堪能で進歩的で知的でしっかり者の女性として描かれているのです。兄とフランス王妃との恋愛の成り行きを冷静に見つめる視点も持っているような人です。よく考えると植爺がいかにも嫌いそうな女だけれど、よくもまあヒロインの座に抜擢してもらえたなあ、池田先生のアイディアなのかなあ、そうだろうなあ。
 ともあれそんなこんなでソフィアが一時期フランスに滞在したことにしてもまったくおかしくないし、貴族同士のおつき合いとしてフェルゼンやオスカルを介してジェローデルと接点があったとしてもまったくおかしくありません。
 ジェローデルもまた原作では実はそんなに描きこまれたキャラクターではないのですが、自分が近衛士官に選ばれた理由に自分の剣や銃や馬術の技量以外に容姿の端麗さがあったとごく自然に考えるような、要するにザッツ・貴族のボンボン、というのが身上のキャラクターです。美形で優雅で端整で、知性もあってちょっとクールでスノッブで、優しくて物静かな男性。
 長男ではないので実家の爵位は継げないにしても、モテただろうし婿への呼び声も多かったろうし、女に不自由はしていない感じ。だからこそ、ちょっとナルシストなところがあるせいもあって、ただ蝶よ花よと育てられただけのゆるふわ可愛いお嬢さんたちなんざただの馬鹿にしか見えなくて、下に見ているし女嫌いで通したりしているのでしょう。
 オスカルとの出会いはどんなだったのかなあ。オスカルは士官学校にいるうちから特別に王太子妃付きの近衛武官に任命されて働いているわけですが、ジェローデルは普通にきちんと卒業して任官して、そうしたら年下だけどもうバリバリ働いていて爵位も軍隊の階級も上の女性の上官がいた、という感じなのかなあ。アランと違ってわかりやすい衝突はしなかったでしょうけれどね、一歩引いて観察しているうちに意外とやるな、となったのかな。そしてそのうちに女性としても可愛いなと思うようになったのかな。最初から女性にしか見えなかった、とは原作でも言っていますけれどね。いいな、ここにもドラマがありそうですよね。
 ともあれそれで格別口説くとか接近するとかそういうことはなくて、ただ有能な副官として、従卒として付き従うアンドレとはまた別の形で陰になり日向になりオスカルを支えながら、心ひそかに想っていたのでしょう。
 これまた原作にはないけれど、オスカルのフェルゼンへの想いにも気づいていたのかもしれませんしね。これまたアンドレとは違う形で、叶う想いでもないしと傍らで見守っていたのかもしれません。
 そんなこんなのうちに、ソフィアとも出会った。ソフィアは一般的な貴族のお嬢さまという範疇からするとちょっとはねっかえりとも言えそうな、独立心にあふれた娘で、弁が立ち真の意味で教養があり、男性と同等に議論ができ芸術が鑑賞できエスプリの効いた会話ができるような、気の弱い男性なら煙たがり敬遠してしまうような、ちょっとした女傑だったのでしょう。まあ残念ながらとなみの演技自体は普通のお嬢さんふうでしたけれどね。
 フェルゼンはそんなだから嫁に行き遅れてるんだとか牽制するかもしれませんが、そういう妹を愛してもいるし、ソフィア自身も縁談を断っているのは自分の方だという自負もあり、世間の評判など意に介してはいないのでしょう。そんなところを、ジェローデルはおもしろがったりしたんじゃないでしょうか。
 ジェローデルはすでにオスカルのことを女性として愛していたでしょうが、ソフィアとは本当に同志として、ただの気の合う良き友人として、楽しくつきあっていたのかもしれません。女嫌いと評判で、必要がなければあえて社交性も発揮しないようなところがある、ちょっとした変わり者だとされているジェローデルにしては珍しいことであり、それだけソフィアが特別だったのでしょう。
 でもソフィアはオスカルのことも知っていますし、だからジェローデルがオスカルを憎からず想っていることに気づいていたりもしたかもしれません。それで妬くとかそういうことではなくて、本当に気のおけない友人として見守っていて、ゆるやかにのどかにつきあっていたのではないかしらん。
 …すみません、ここまであくまで捏造です。というか脳内劇場で展開されている光景です。

 というワケでミズのジェローデルがキムのオスカルに対し、ジャルジェ将軍から求婚者として認められたことなどを告げる場面になります。あの厚めのキュートな唇をとんがらかしてぷんすかしているキムが可愛い! オスカルをトップスターとか二番手スターがやってしまうとジェローデル役者は下級生になり、ジェローデルがオスカルをちょっと上からおもしろがりつつ見ている感じがなかなか出ないのですが、この組み合わせだとよかったわー。「マドモアゼル」呼ばわりといい、ジェローデルがオスカルをくどく台詞が実によく似合いました。
 が、オスカルは求婚者たちを招いた舞踏会で、パリ一番の仕立て屋に作らせた盛装でご婦人方と踊りまくり、衛兵隊の荒くれ者どもを呼んで食事の場を荒らさせて、舞踏会を散々にぶち壊すのでした。ジェローデルは肩をすくめるより他にありません。
 一方で、アントワネットに不利な噂がこれ以上立つのを恐れて帰国を決意するフェルゼンに対し、オスカルに会っていくよう言うのはジェローデル…という流れになっています。てかなってましたよね? 実は一度再生してすぐ録画データを消してしまったので細かい記憶が怪しいのです…フェルゼンはユミコでしたが、出番の数としてはやや気の毒でした。
 ここでジェローデルが、兄と一緒に帰国するソフィアと語り合うくだりが初めてあります。ソフィアはここでジェローデルに対してある程度好意があることを告げる…んだったかな? まあ特に唐突でもなく、しかしジェローデルには母国での貴族としての義務や軍人としての任務もあるし、オスカルに求婚している身でもあるし、ここではそれには応えられない…となっていたんだったかな?
 でも他にいくところがあるとすればそれはあなたのところだけである…というようなことをソフィアに語るジェローデルの台詞が、別に調子のいい二枚舌に聞こえず、情感のあるいい場面になっていたと思いました。

 このバージョンではアントワネットもアンドレも実際には登場しないので、毒殺や今宵一夜場面もなく、オスカルとジェローデルといえば、という「身を引くことが愛の証」場面もなんとありません。それでも、オスカルとジェローデルの立場や考え方の明確な違いが描かれ、だからこそ離れていくしかない、まして恋愛や結婚なんて無理だ、という展開がきちんとなされるのが素晴らしい。
 それは国民議会の封鎖場面です。これは原作にもあるくだりですが、ブイエ将軍の命令のもとジェローデルたちが議会場から平民議員を締め出しにかかり、抵抗する議員たちに銃を向け、そこに衛兵隊に転属してもはやジェローデルの上官ではなくなったオスカルが空手で飛び出していく場面です。
 オスカルを撃つような真似ができなかったジェローデルは、将軍の命令に逆らって撤収します。おそらく彼はその責任を取らされることでしょう。一方でオスカルは、バスティーユ前のあの橋の場面ではなく、すでにこの時点で、平民たちの側に立って戦うことを決心したことになるのでした。貴族でしかない、あくまで貴族としてしか生きられないジェローデルとは、この時点で道が別れてしまったのでした。
 革命場面は、橋のくだりもバスティーユに白旗が上がるくだりもなく、ヒロミのロベスピエール(凛々しくてよかったわ!別に専科さんがおっさんふうにやらなくてもいい役だよね、と初めて思った)を中心としたシトワイヤンたちの熱いダンスで表現されます。これもいい。

 というわけでさてその後のジェローデルですが、原作にはありませんが宝塚版では国王一家を幽閉先から脱出させるため、スウェーデンに帰国したフェルゼンとのころに助力を願いに行ったりします。
 オスカルの死が語られ、フランス国内の情勢が語られ、フェルゼンは愛する王妃を救うために再びフランスに戻ることを決意し、支度にハケて、ジェローデルとソフィアが残されます。
 外国人を、一家の長を、兄上を、騒乱に巻き込むことは申し訳なく思っている。しかし他に頼る者がいない、王党派の貴族としてできるだけのことはしたい、許してほしい…というようなことしか、ここでのジェローデルは言えません。
 国王一家を亡命させ、フェルゼンを必ずソフィアのもとに帰す、そう約束したいけれど、確実なことは言えない。まして自分が戻ってこられるかどうかなどわからないし、ソフィアに待っていてほしいなどとは言えない。
 それでも…というような感じで、ここでもっとラブい展開があるとさらによかったかもしれませんね。
「待っています」
「待たないでください」
「それは命令ですか、ならば聞けません。人の心に命令はできないのですよ」
「…同じことを私はかつて別の人に言いました…」
「それであなたはどうなさいましたか?」
「……」
「待ちます。必ずお帰りになってくださいね」
 とかさ、どう?

 しかしヴァレンヌ逃亡計画は完遂されず、フェルゼンは命からがらスウェーデンに戻ったのでした。
 このあたりのジェローデルが描かれることは他の版でもほとんどありません。可能性としては、他国へ亡命したか、王党派の貴族として逮捕され処刑されたか、国内で地下に潜り活動する反革命派となるか、あたりでしょうか。
 この版ではナポレオンの戴冠を阻止すべく暗殺に走った、ある種のテロリストとなっていましたね。ロベスピエールと再会し、目こぼししてくれて国外へ出してくれた、というのはいいエピソードだったなあ、勧進帳みたいな場面を作ればよかったのになあ。
 でも暗殺は失敗し、深手を負って逃げ込んだ修道院に偶然ソフィアが身を寄せていて、ジェローデルはソフィアの腕の中で息を引き取るのでした。
 アラン編でもベルナール編でもナポレオン暗殺事件というのは必ず扱われていて、それは池田氏が『エロイカ』というナポレオンの評伝漫画を描いているからだと思います。昔読んだ気もしますが記憶がない…実際にアランは登場するんでしたっけかね? でも例えばこれまたよくできた『ベルばら』アニメ版ではアランは確か市井の農民になって革命後のこの国を遠く眺めていたりするんじゃなかったかな? そんな感じでもいいのにね。
 何が言いたいかというと、ジェローデル編も無理に死んで終わりにせずに、ハッピーエンドにすることだってできたのではないの?ということです。
 傷ついて戻ったジェローデルを迎え癒すソフィアで終わり、でもいいわけでさ。もちろんジェローデル自身は潔く死にたいとか考えちゃうような、ザッツめ貴族な男ですよ、でもそれを健やかに立ち直らせる力が女には、ソフィアにはあると思いますしね。
 そうして、だんだんに心冷たいアナーキストになっていってしまうフェルゼンとはまた違う人生をふたりは送ったのだ…としても、いいと思うのですよねえ。そんなのも観てみたかったです。

 と、ことほどさように長々語ってしまうほど、『ベルばら』には魅力的なサブキャラクターはこと欠かないのでした。ブイエ将軍とかルイ16世とかだグー大佐とかでだって外伝は作れそうですよね、いざとなったらね。
 でもだからこそ、ぼちぼち決定版の本編を、と強く強く思うワケですよ。
 もうだんだん、ジャンヌとかポリニャックとか贅沢は言わないから、アントワネットとフェルゼンとオスカルとアンドレの四人をきちんと描いてくれさえすればいいから、ホントどうにかして…と言いたいのでした。

 せめて外伝の脚本・演出はお若い人に任せてもいいのではないの植爺…そこから徐々に門戸を開放していこうじゃないの植爺…頼みますよホント…

 というワケで、宝塚版『ベルばら』決定版を考える作業は続けたいと思います。



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『見知らぬ女の手紙』

2013年06月09日 | 観劇記/タイトルま行
 パルコ劇場、2013年6月8日ソワレ。

 世界的なピアニスト(西島千博)は演奏旅行で一年の大半は留守にする。ある日久々に自宅に戻ると、郵便物の中に妙に分厚い、しかし見覚えするない文字でつづられた女(中嶋朋子)からの手紙が届いていた…
 作/シュテファン・ツヴァイク、演出/行定勲、訳/中垣啓一、振付/西島千博。パルコ劇場リーディングドラマシリーズ第4弾、2008年に日本初演した公演の再演。全1幕。

 手紙をモチーフにしたモノローグドラマであり、シンプルな舞台セットの中で女役の中嶋朋子が女を演じながら、女の手紙をひたすら読み上げます。手紙を受け取ったピアニスト役の西島千博は、もちろん手紙を読むような演技もしますが、ただそこにいるだけだったりもして、女の思い出の中の、イメージの中のピアニストに扮しているようでもあります。
 そしてときどき、ふいっと、踊るというほどのものでもなくただゆらりと、体を動かす。腕をくねらす。それが「恋愛」の何かを、情念とでもいうようなものを表現しているようでもあり、とてもゾクゾクさせられました。
 キー音楽はベートーベンの「月光」。照明(高見和義)の効果も素晴らしかったです。

 簡単に言うと狂気をも含んだストーカー女の告白、のお話なのかもしれません。少女の頃から一方的に熱を上げ、つきまとい、チャンスをつかんで接触し、相手からの連絡を待ち続けた女。一方でピアニストの子供をひとりで産みひとりで育て、そしてひとりで失った女。
 子供が死ぬことがなければ、女は死ぬこともなく手紙を書くこともなかったのでしょう。そういう意味では、女はピアニストを必要としていなかったと言ってもいいのではないでしょうか。ピアニストが女を必要としていなかったのと同様に。
「愛しい方、あなたは私をお認めにはなりませんでした」
 何度か繰り返されるこの言葉が刺さりました。この「認める」認定、認証以前の、認識、ということです。ピアニストは女に何度か会っているわけですが、同一人物だと認識できていません。相手の人格を認めていないのです。彼にとって彼女は、ただの行きずりの女たちのひとりにすぎないのです。
 手紙が来ようが、あなたの子供が死んだと告げられようが、彼にはやはり何も思い出せないし、彼が変わることはないのではないでしょうか。女もそんなことを彼に望んでいたわけではないのかもしれないけれど。
 つまり人と人が出会って恋に落ちたりすることは、ふたりともの人生や人格が変化して、もしかしたらふたりの人生がひとつになったりならなかったりといった、とにかく「恋愛」前後で何らかの「変化」が起こるものだと思うのですが、このピアニストと女は何度か夜を一緒にすごしはしましたが、しかしふたりともその前後で要するに何も変わっていないのですね。ピアニストはともかく、女も変化していないのです。娘から女になり処女でなくなり妊娠し出産し母親になっても、それでも何も変わっていないのです。
 子供を失ったことは彼女にとって不幸だったかもしれません。だから彼女は自分自身の人生も終えてしまおうと考えたのでしょう。しかし彼女の人生自体はピアニストによってはなんら変化させられなかったのでした。子供の父親はピアニストでしたが、しかしそれはなんの意味ももたないただの化学現象だったのです。
 もちろん、ピアニストが女に金を渡そうとしたことは彼女にとってショックだったでしょう。娼婦だと思われたということよりも、自らの加齢を突きつけられた気がしたのではないでしょうか。そしてそれほどの時間がたっているというのに、それほど自分の外見は変わったであろうと思うのに、ピアニストの従僕は自分のことがわかった、ということもまたショックだったのでしょう。そこに子供の死は駄目押しだったのでしょう。
 しかし子供の死がなければ、女は変わらずそのままの生き方を続けていたのではないでしょうか。
 恋愛も人生ももちろん幸福なことばかりではありません。しかしとにかく変化に富んだものではあるでしょう、
 しかしピアニストと女の人生には、少なくともこのふたりの接触領域においては、変化はなんら生まれていないのでした。その平穏さはほとんど死です。一方で、それこそが幸福なのだとも思えました。
 何者にも左右されない、変化させられることのない、ほとんど死んでいると言ってもいい、平穏な幸福。
 女は実際に死に、ピアニストはこのまま生きていくのでしょうが、ふたりとも同じような意味で幸福なのではあるまいか。その不毛。こんなにも何も生まない「恋愛」が成立する虚無。
 そんなものを描いている舞台に、私には見えました。

 この女がかわいそうとか、この女が怖いとか、このピアニストって罪な男だとか変な男だとか、そんな感想では終われませんでした。
 おもしろかったです。

 外部版『ロミオ&ジュリエット』の死とかもそうでしたが、演劇の中の、というかお芝居の中のダンスのインパクトってものすごいものがありますね。ミュージカルのナンバーとは明らかに違う異質感。
 そういうものもひっくるめて、舞台作品の醍醐味、マジックを満喫しました。


 しかし数点だけ…
 冒頭のナレーションは演出家のものでしょうか。語りが完全に素人で、興醒めしました。朗読、ナレーションというものはただの音読とは圧倒的に違います。プロにしかできないものです。別の役者を使うか、西島千博に無理なら中嶋朋子に読ませたってよかった。再考してほしいです。
 それから終演後に演出家のトークショーがあったのですが、司会者(というか「トークセッション」と言っていたので対談相手?)が名乗りもしなかったのには違和感を感じました。どうやらプロデューサーの毛利美咲氏だったようですが、観客に対して失礼だったのでは…再考してほしいと思いました。
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