パルコ劇場、2013年6月8日ソワレ。
世界的なピアニスト(西島千博)は演奏旅行で一年の大半は留守にする。ある日久々に自宅に戻ると、郵便物の中に妙に分厚い、しかし見覚えするない文字でつづられた女(中嶋朋子)からの手紙が届いていた…
作/シュテファン・ツヴァイク、演出/行定勲、訳/中垣啓一、振付/西島千博。パルコ劇場リーディングドラマシリーズ第4弾、2008年に日本初演した公演の再演。全1幕。
手紙をモチーフにしたモノローグドラマであり、シンプルな舞台セットの中で女役の中嶋朋子が女を演じながら、女の手紙をひたすら読み上げます。手紙を受け取ったピアニスト役の西島千博は、もちろん手紙を読むような演技もしますが、ただそこにいるだけだったりもして、女の思い出の中の、イメージの中のピアニストに扮しているようでもあります。
そしてときどき、ふいっと、踊るというほどのものでもなくただゆらりと、体を動かす。腕をくねらす。それが「恋愛」の何かを、情念とでもいうようなものを表現しているようでもあり、とてもゾクゾクさせられました。
キー音楽はベートーベンの「月光」。照明(高見和義)の効果も素晴らしかったです。
簡単に言うと狂気をも含んだストーカー女の告白、のお話なのかもしれません。少女の頃から一方的に熱を上げ、つきまとい、チャンスをつかんで接触し、相手からの連絡を待ち続けた女。一方でピアニストの子供をひとりで産みひとりで育て、そしてひとりで失った女。
子供が死ぬことがなければ、女は死ぬこともなく手紙を書くこともなかったのでしょう。そういう意味では、女はピアニストを必要としていなかったと言ってもいいのではないでしょうか。ピアニストが女を必要としていなかったのと同様に。
「愛しい方、あなたは私をお認めにはなりませんでした」
何度か繰り返されるこの言葉が刺さりました。この「認める」認定、認証以前の、認識、ということです。ピアニストは女に何度か会っているわけですが、同一人物だと認識できていません。相手の人格を認めていないのです。彼にとって彼女は、ただの行きずりの女たちのひとりにすぎないのです。
手紙が来ようが、あなたの子供が死んだと告げられようが、彼にはやはり何も思い出せないし、彼が変わることはないのではないでしょうか。女もそんなことを彼に望んでいたわけではないのかもしれないけれど。
つまり人と人が出会って恋に落ちたりすることは、ふたりともの人生や人格が変化して、もしかしたらふたりの人生がひとつになったりならなかったりといった、とにかく「恋愛」前後で何らかの「変化」が起こるものだと思うのですが、このピアニストと女は何度か夜を一緒にすごしはしましたが、しかしふたりともその前後で要するに何も変わっていないのですね。ピアニストはともかく、女も変化していないのです。娘から女になり処女でなくなり妊娠し出産し母親になっても、それでも何も変わっていないのです。
子供を失ったことは彼女にとって不幸だったかもしれません。だから彼女は自分自身の人生も終えてしまおうと考えたのでしょう。しかし彼女の人生自体はピアニストによってはなんら変化させられなかったのでした。子供の父親はピアニストでしたが、しかしそれはなんの意味ももたないただの化学現象だったのです。
もちろん、ピアニストが女に金を渡そうとしたことは彼女にとってショックだったでしょう。娼婦だと思われたということよりも、自らの加齢を突きつけられた気がしたのではないでしょうか。そしてそれほどの時間がたっているというのに、それほど自分の外見は変わったであろうと思うのに、ピアニストの従僕は自分のことがわかった、ということもまたショックだったのでしょう。そこに子供の死は駄目押しだったのでしょう。
しかし子供の死がなければ、女は変わらずそのままの生き方を続けていたのではないでしょうか。
恋愛も人生ももちろん幸福なことばかりではありません。しかしとにかく変化に富んだものではあるでしょう、
しかしピアニストと女の人生には、少なくともこのふたりの接触領域においては、変化はなんら生まれていないのでした。その平穏さはほとんど死です。一方で、それこそが幸福なのだとも思えました。
何者にも左右されない、変化させられることのない、ほとんど死んでいると言ってもいい、平穏な幸福。
女は実際に死に、ピアニストはこのまま生きていくのでしょうが、ふたりとも同じような意味で幸福なのではあるまいか。その不毛。こんなにも何も生まない「恋愛」が成立する虚無。
そんなものを描いている舞台に、私には見えました。
この女がかわいそうとか、この女が怖いとか、このピアニストって罪な男だとか変な男だとか、そんな感想では終われませんでした。
おもしろかったです。
外部版『ロミオ&ジュリエット』の死とかもそうでしたが、演劇の中の、というかお芝居の中のダンスのインパクトってものすごいものがありますね。ミュージカルのナンバーとは明らかに違う異質感。
そういうものもひっくるめて、舞台作品の醍醐味、マジックを満喫しました。
しかし数点だけ…
冒頭のナレーションは演出家のものでしょうか。語りが完全に素人で、興醒めしました。朗読、ナレーションというものはただの音読とは圧倒的に違います。プロにしかできないものです。別の役者を使うか、西島千博に無理なら中嶋朋子に読ませたってよかった。再考してほしいです。
それから終演後に演出家のトークショーがあったのですが、司会者(というか「トークセッション」と言っていたので対談相手?)が名乗りもしなかったのには違和感を感じました。どうやらプロデューサーの毛利美咲氏だったようですが、観客に対して失礼だったのでは…再考してほしいと思いました。
世界的なピアニスト(西島千博)は演奏旅行で一年の大半は留守にする。ある日久々に自宅に戻ると、郵便物の中に妙に分厚い、しかし見覚えするない文字でつづられた女(中嶋朋子)からの手紙が届いていた…
作/シュテファン・ツヴァイク、演出/行定勲、訳/中垣啓一、振付/西島千博。パルコ劇場リーディングドラマシリーズ第4弾、2008年に日本初演した公演の再演。全1幕。
手紙をモチーフにしたモノローグドラマであり、シンプルな舞台セットの中で女役の中嶋朋子が女を演じながら、女の手紙をひたすら読み上げます。手紙を受け取ったピアニスト役の西島千博は、もちろん手紙を読むような演技もしますが、ただそこにいるだけだったりもして、女の思い出の中の、イメージの中のピアニストに扮しているようでもあります。
そしてときどき、ふいっと、踊るというほどのものでもなくただゆらりと、体を動かす。腕をくねらす。それが「恋愛」の何かを、情念とでもいうようなものを表現しているようでもあり、とてもゾクゾクさせられました。
キー音楽はベートーベンの「月光」。照明(高見和義)の効果も素晴らしかったです。
簡単に言うと狂気をも含んだストーカー女の告白、のお話なのかもしれません。少女の頃から一方的に熱を上げ、つきまとい、チャンスをつかんで接触し、相手からの連絡を待ち続けた女。一方でピアニストの子供をひとりで産みひとりで育て、そしてひとりで失った女。
子供が死ぬことがなければ、女は死ぬこともなく手紙を書くこともなかったのでしょう。そういう意味では、女はピアニストを必要としていなかったと言ってもいいのではないでしょうか。ピアニストが女を必要としていなかったのと同様に。
「愛しい方、あなたは私をお認めにはなりませんでした」
何度か繰り返されるこの言葉が刺さりました。この「認める」認定、認証以前の、認識、ということです。ピアニストは女に何度か会っているわけですが、同一人物だと認識できていません。相手の人格を認めていないのです。彼にとって彼女は、ただの行きずりの女たちのひとりにすぎないのです。
手紙が来ようが、あなたの子供が死んだと告げられようが、彼にはやはり何も思い出せないし、彼が変わることはないのではないでしょうか。女もそんなことを彼に望んでいたわけではないのかもしれないけれど。
つまり人と人が出会って恋に落ちたりすることは、ふたりともの人生や人格が変化して、もしかしたらふたりの人生がひとつになったりならなかったりといった、とにかく「恋愛」前後で何らかの「変化」が起こるものだと思うのですが、このピアニストと女は何度か夜を一緒にすごしはしましたが、しかしふたりともその前後で要するに何も変わっていないのですね。ピアニストはともかく、女も変化していないのです。娘から女になり処女でなくなり妊娠し出産し母親になっても、それでも何も変わっていないのです。
子供を失ったことは彼女にとって不幸だったかもしれません。だから彼女は自分自身の人生も終えてしまおうと考えたのでしょう。しかし彼女の人生自体はピアニストによってはなんら変化させられなかったのでした。子供の父親はピアニストでしたが、しかしそれはなんの意味ももたないただの化学現象だったのです。
もちろん、ピアニストが女に金を渡そうとしたことは彼女にとってショックだったでしょう。娼婦だと思われたということよりも、自らの加齢を突きつけられた気がしたのではないでしょうか。そしてそれほどの時間がたっているというのに、それほど自分の外見は変わったであろうと思うのに、ピアニストの従僕は自分のことがわかった、ということもまたショックだったのでしょう。そこに子供の死は駄目押しだったのでしょう。
しかし子供の死がなければ、女は変わらずそのままの生き方を続けていたのではないでしょうか。
恋愛も人生ももちろん幸福なことばかりではありません。しかしとにかく変化に富んだものではあるでしょう、
しかしピアニストと女の人生には、少なくともこのふたりの接触領域においては、変化はなんら生まれていないのでした。その平穏さはほとんど死です。一方で、それこそが幸福なのだとも思えました。
何者にも左右されない、変化させられることのない、ほとんど死んでいると言ってもいい、平穏な幸福。
女は実際に死に、ピアニストはこのまま生きていくのでしょうが、ふたりとも同じような意味で幸福なのではあるまいか。その不毛。こんなにも何も生まない「恋愛」が成立する虚無。
そんなものを描いている舞台に、私には見えました。
この女がかわいそうとか、この女が怖いとか、このピアニストって罪な男だとか変な男だとか、そんな感想では終われませんでした。
おもしろかったです。
外部版『ロミオ&ジュリエット』の死とかもそうでしたが、演劇の中の、というかお芝居の中のダンスのインパクトってものすごいものがありますね。ミュージカルのナンバーとは明らかに違う異質感。
そういうものもひっくるめて、舞台作品の醍醐味、マジックを満喫しました。
しかし数点だけ…
冒頭のナレーションは演出家のものでしょうか。語りが完全に素人で、興醒めしました。朗読、ナレーションというものはただの音読とは圧倒的に違います。プロにしかできないものです。別の役者を使うか、西島千博に無理なら中嶋朋子に読ませたってよかった。再考してほしいです。
それから終演後に演出家のトークショーがあったのですが、司会者(というか「トークセッション」と言っていたので対談相手?)が名乗りもしなかったのには違和感を感じました。どうやらプロデューサーの毛利美咲氏だったようですが、観客に対して失礼だったのでは…再考してほしいと思いました。
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