シアタートラム、2020年1月30日19時。
宝塚歌劇団に入りたい少女・貝(木崎ゆりあ)が祖母(大西多摩恵)と共に訪れたのは、宝塚の伝説的スター・春日野八千代(若村麻由美)が経営する地下喫茶店《肉体》。そこには、腹話術師(武谷公雄)とその人形(森田真和)、水道の水を何度も飲みに来る男(田中佑弥)、タップダンスを踊るふたりのボーイ(井澤勇貴、水瀬慧人)と暴力的なボーイ主任(大堀こういち)といった、一風変わった人々がいた。そして『嵐が丘』のヒースクリッフになりきった春日野が現れる…
作/唐十郎、演出・美術/杉原邦生、照明/齋藤茂男、音楽/国広和毅。1969年に唐十郎が、自身が主宰する劇団「状況劇場」以外に初めて書き下ろした戯曲。全一幕。
タイトルは聞いていて、宝塚歌劇ファンとしていつか観てみたいと思っていて、さららんがやると聞き楽しみにしていたところ若村麻由美でもやるというので、こちらもチケットを手配しました。
アングラだろうと覚悟はしていましたがまさしくアングラで、不条理というか不可思議で、台詞や演技のレベル含めて物語の世界の軸がつかめない感じで序盤はぶっちゃけ退屈したのですが、やはり貝と春日野のふたり芝居になってからは俄然おもしろく感じましたし、そうなるといろいろなことがつながり出して、結局はとてもおもしろく観ました。思えばそんなにアングラでもなかったのかもしれません(笑)、まあ私がアングラなるものをよくわかっていないだけかもしれませんが…
来月さららん版を観たら、どこまでが戯曲によるものでどこからが演出によるものだったのかなど、差異がわかっておもしろいでしょうね。楽しみです。
しかしさすがに50年前の男性作家が書いた戯曲だな、とは思いました。この春日野八千代というのは実際の春日野八千代のことではなくて、スターとしてのイメージみたいなキャラクターで、年齢や満州公演の期日などについても実際のものとはわずかにズレがあるそうです。なので全体としては、スターとファンとか役者と演出家とか、精神と肉体とか人形と腹話術師とか、そういういわゆる「客体」を巡る物語になっているので、それが宝塚歌劇のスターになっていることとか少女とか仮面とかいうタイトルになっているのはたまたまというかちょうどよかったからであって、そこに過剰な意味はない気がしました。まあこれは、宝塚歌劇ファンである私が観るからそう感じるのかもしれませんが。要するにスターとか役者とかの象徴として扱われているだけだということです。だから、現代で女性の作家が本当にこのあたりにこだわって書くならもっと別のものになるだろう、と私は思ったということです。
でも、別におもしろくなかったわけではなくて、自分は本当に自分ひとりのものでありのままの自分なのだろうか、みたいなことは永遠のテーマだなとも思いましたし、貝と春日野の関係の変化とかは特におもしろかったです。初演は春日野が白石加代子、貝は吉行和子だったんだそうですねえ、すごいな! しかし「貝」ってのは名前としても不思議だけれど、どういう意図なんでしょうね?
一方で、やはり私が感じ取れなかっただろうことはたくさんあって、最初は邪魔だなとか本筋に関係なくないかとすら思った腹話術師やボーイたちはのちに物語につながり意味があったとわかったのだけれど、水道飲みの男については最後までピンときませんでした。戦時中や戦後、水すら飲むのが大変だった飢餓の時代みたいなものを象徴していたのでしょうか…ギリ戦中、戦後生まれの両親から生まれた戦争を知らない子供たちである私には、のちにプログラムを読んで「へえ」と思ったのでした。
あと、この頃の作家ってホント満州のこと書くよね…てか好きだよね。そこには何か本当に多大なロマンとドラマと事件があったんでしょうね。もちろん歴史的な事象としては私も抑えているつもりなのですが…甘粕さんって当時のいわゆる萌えキャラだったんだろうなあ。それとも当時はさすがにそういう消費のされ方ではなかったのでしょうか…
ともあれボーイ役者たちの二役の仕方とか、セットの転換なんかもおもしろかったです。見比べるのが楽しみです!
宝塚歌劇団に入りたい少女・貝(木崎ゆりあ)が祖母(大西多摩恵)と共に訪れたのは、宝塚の伝説的スター・春日野八千代(若村麻由美)が経営する地下喫茶店《肉体》。そこには、腹話術師(武谷公雄)とその人形(森田真和)、水道の水を何度も飲みに来る男(田中佑弥)、タップダンスを踊るふたりのボーイ(井澤勇貴、水瀬慧人)と暴力的なボーイ主任(大堀こういち)といった、一風変わった人々がいた。そして『嵐が丘』のヒースクリッフになりきった春日野が現れる…
作/唐十郎、演出・美術/杉原邦生、照明/齋藤茂男、音楽/国広和毅。1969年に唐十郎が、自身が主宰する劇団「状況劇場」以外に初めて書き下ろした戯曲。全一幕。
タイトルは聞いていて、宝塚歌劇ファンとしていつか観てみたいと思っていて、さららんがやると聞き楽しみにしていたところ若村麻由美でもやるというので、こちらもチケットを手配しました。
アングラだろうと覚悟はしていましたがまさしくアングラで、不条理というか不可思議で、台詞や演技のレベル含めて物語の世界の軸がつかめない感じで序盤はぶっちゃけ退屈したのですが、やはり貝と春日野のふたり芝居になってからは俄然おもしろく感じましたし、そうなるといろいろなことがつながり出して、結局はとてもおもしろく観ました。思えばそんなにアングラでもなかったのかもしれません(笑)、まあ私がアングラなるものをよくわかっていないだけかもしれませんが…
来月さららん版を観たら、どこまでが戯曲によるものでどこからが演出によるものだったのかなど、差異がわかっておもしろいでしょうね。楽しみです。
しかしさすがに50年前の男性作家が書いた戯曲だな、とは思いました。この春日野八千代というのは実際の春日野八千代のことではなくて、スターとしてのイメージみたいなキャラクターで、年齢や満州公演の期日などについても実際のものとはわずかにズレがあるそうです。なので全体としては、スターとファンとか役者と演出家とか、精神と肉体とか人形と腹話術師とか、そういういわゆる「客体」を巡る物語になっているので、それが宝塚歌劇のスターになっていることとか少女とか仮面とかいうタイトルになっているのはたまたまというかちょうどよかったからであって、そこに過剰な意味はない気がしました。まあこれは、宝塚歌劇ファンである私が観るからそう感じるのかもしれませんが。要するにスターとか役者とかの象徴として扱われているだけだということです。だから、現代で女性の作家が本当にこのあたりにこだわって書くならもっと別のものになるだろう、と私は思ったということです。
でも、別におもしろくなかったわけではなくて、自分は本当に自分ひとりのものでありのままの自分なのだろうか、みたいなことは永遠のテーマだなとも思いましたし、貝と春日野の関係の変化とかは特におもしろかったです。初演は春日野が白石加代子、貝は吉行和子だったんだそうですねえ、すごいな! しかし「貝」ってのは名前としても不思議だけれど、どういう意図なんでしょうね?
一方で、やはり私が感じ取れなかっただろうことはたくさんあって、最初は邪魔だなとか本筋に関係なくないかとすら思った腹話術師やボーイたちはのちに物語につながり意味があったとわかったのだけれど、水道飲みの男については最後までピンときませんでした。戦時中や戦後、水すら飲むのが大変だった飢餓の時代みたいなものを象徴していたのでしょうか…ギリ戦中、戦後生まれの両親から生まれた戦争を知らない子供たちである私には、のちにプログラムを読んで「へえ」と思ったのでした。
あと、この頃の作家ってホント満州のこと書くよね…てか好きだよね。そこには何か本当に多大なロマンとドラマと事件があったんでしょうね。もちろん歴史的な事象としては私も抑えているつもりなのですが…甘粕さんって当時のいわゆる萌えキャラだったんだろうなあ。それとも当時はさすがにそういう消費のされ方ではなかったのでしょうか…
ともあれボーイ役者たちの二役の仕方とか、セットの転換なんかもおもしろかったです。見比べるのが楽しみです!
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