駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『TABU』

2015年06月14日 | 観劇記/タイトルた行
 新国立劇場、2015年6月7日ソワレ、12日ソワレ。

 ドイツ名家の御曹司で人並み外れた色彩に関する共感覚を持ち、写真家として成功を収めたゼバスチャン・フォン・エッシュブルク(真田佑馬)。ある日、彼が若い女性を誘拐したという通報により緊急逮捕された。是バスティアンは自らの弁護をベテラン刑事弁護士ビーグラー(橋爪功)に依頼。ビーグラーは彼の元恋人だというソフィア(大空祐飛)とともに事件の真相解明に動き出すが…
 原作/フェルディナント・フォン・シーラッハ、原作翻訳/酒寄進一、上演台本/木内宏昌、演出/深作健太。全1幕。

 原作小説を読んだときは意味がわからずおもしろくもなかったのですが(^^;)、マイ初日でもそんな感じでした。ああ、この場面をこう舞台化したのねとか、ああそういやこんな場面あったなとか、ほほうなるほどとか考えてまあまあ楽しく観たんだけれど、「で?」みたいな感じでやっぱりサッパリわからなくて。
 二度目に観たときは、ビーグラーの療養場面で毛糸球が客席に落ちるハプニングがあり、客席が笑ってちょっと空気が緩んだりして、その後もユーモラスなことには笑う、みたいな空気が生まれたのですね(ちなみに毛糸トラブルに関して言えば、私は無視するというか笑うのを抑えるのが観客のマナーなのではないかと思うのだけれど…舞台は確かにすぐそこ、手の届くことろにあるけれど、そこで演じられているのは別空間の物語であって地続きではないということになっている、という鑑賞のお約束を破ることになる気がする。こういうとき笑うのは歌舞伎で黒子に注視しちゃうのと同じで、「黒子が見える!」と言うのは「王様は裸だ!」と言うのとは意味が違うと思うのです)。
 そんな中で観ると、この話は猟奇殺人ミステリーとかではなく、芸術家の悪ふざけってことなのかな、とふと思えたのです。
 というか、事件の真相ってそういうことなの?とやっと思い至ったのですが。死体はなかった、被害者はいなかった。被害者の写真だと思われていたものは合成で、通報は妹がした嘘? 手錠についていた皮膚や残っていた血痕も嘘の仕掛け? それらすべてがインス他レーションだかなんだか知らないけどゼバスチャンの芸術だか作品だかで、裁判官たちは振り回されただけ?
 殺人事件はなかった、だからゼバスチャンは無罪である。だがそれは無実とは違う。そもそも罪とは何か? 赤、青、緑の光の三原色が混じると白に見えるがそれは無色透明と同じことではない。
 ならゼバスチャンにも罪はありますよね? こんなふうに無意味に世間を騒がせた罪が。彼にとってはそれも含めて作品だったのかもしれないけれど。
 ビーグラーはともかくモニカ(宮本裕子)やシュッツ刑事(池下重大)にはたまったもんじゃないでしょう。私はゼバスチャンを憎みますね。
 人はそもそも生まれたときから現在を背負っている、とキリスト教圏では考えられているそうだけれど、だからってよく生きようとしなくていいということにはならない。生や死や法を弄ぶようなことをして生きていくなんて、社会の一員として許されないんじゃないの? それともそんなつもりではなかったということ? それとも芸術はそうしたものの範疇外だと言いたいの?
 私はゼバスチャンが嫌いだしこの作品のこともこの作家のことも好きになれそうにありません。この解釈が全然的外れなんだとしても。私にはそう思えたしそう考えたということです。

 というワケで大空さん演じるソフィアは原作ではもっとキャリアウーマンふうだったのですが、舞台が「ビーグラーの事件簿」として編集されているので彼女のキャラクターもぐっと変わって、ゼバスチャンを心配する元カノ、ごくごく普通の女性、といった感じでした。
 大空さんは企画段階のオファーでおもしろそうだと思って引き受け、その後原作を読んでまたおもしろく感じたそうですが、それからすると舞台の脚本の中でのソフィアについてはどう思ったのかな。次のフェスタで語ってくれるでしょうか。
 私は、「普通の女のこの役の大空さん、可愛いじゃん」ときゅんきゅんしましたけどね。薄化粧、フェミニンなんだかダサいんだかよくわからないヘアスタイル、お衣装。ヒロインっぽい、娘役ちゃんっぽいオーラ。女っぽい仕草が下手だと言う人もいたけれど、私はそうは感じなかったなー。こんな女いそうじゃない?って感じで。
 確かに大空さんの起用が必要な役ではなかったかもしれないけれど、そんなのこの先もいくらでもあるだろうし、大空さんの仕事のひとつとしてはおもしろかったんじゃないのかなー、と思いました。
 でも、次の公演はミュージカルでかつコメディだろうから複数回観ても楽しいだろうけれど、今後は普通の外部公演と同じでそうそうリピートしなくなるかもな、と改めて思いました。その必要を感じない。外の舞台ならなおさら、一定のレベルが最初から最後まで求められるだろうし、だから初日から行って変化を見届けて…なんて必要ない。
 少なくとも初日が被って『王家』の方に行って私は全然それでよかったね。次も『舞音』と被っていますがそちらに行きます。現役とは見方が違う。愛が冷めた、とかではなくてね。
 そんなことも考えさせられた観劇でした。


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