駒子の備忘録

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Q/現在の宝塚で「エリザベート」を上演する場合の、理想のキャストをおしえてください。

2013年12月05日 | 日記
Q/現在の宝塚で「エリザベート」を上演する場合の、理想のキャストをおしえてください。

A/
 …うーん、今だったらまりもで観たい、かな…?

 ただ、『高慢と偏見』に関する妄想質問インタビューでもお答えしましたが、どうも私は妄想配役が苦手のようです。
 人様に言われると、「ああソレ似合いそう!」とかはすぐ言えるのに、自分からは上手く発想できないようなのです…カップリング想定と同じだな!(さらっと問題発言)

 ただ、『エリザベート』については、初演からもちろん何度か観ていますが(生では観られなかったものや映像でも観ていないものもありますが)、実は「コレだ! コレが観たかったのよ!!」という納得演出に当たったことがない気がします。
 毎度エラそうな物言いですみませんが。
 だから楽曲は本当に素晴らしいと思うけれど、作品として好きかと言われると実は「普通…」としか言いようがないのです。超絶フリークな方には申し訳ありません。

 なのでせっかくなので、「私が望む『エリザベート』演出」について語らせていただきたいと思います。主に二点についてだけなので。
 でも長いけど。毎度のことだけど。
 あ、ちなみに宝塚版について、ということです。
 私はロマンチストなので(^^;)東宝版より宝塚版の方が好きです。
 ちなみに東宝版について言いたいことは、アスカでもミホコでもいい、元トップ娘役のエリザベートがそろそろ観たい、ということだけです。
 女優さんになってまで男役偏重しなくていいよ…


 えーと、まず、ウィーン版は観たことがありません。
 だから、そもそもこの作品がどんなものだったのか、を私は正しく捉えられていないかもしれません。
 私はこの物語を、死神トートと皇妃エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの三角関係の物語として観たいと考えています。
 もっと言えば、トートとエリザベートの恋物語として。
 そして、フランツに関する演出については私はおおむね満足しています。
 フランツが扉越しにエリザベートを呼ばわる場面なんか大好物だ!
 ちなみにマイ・ベスト・フランツは現在のところガイチです(*^o^*)。

 まず一点、トートとエリザベートの出会いの場面について。
 トートは、なんといってもエリザベートの美貌に驚き、惹かれ、愛し始めるようになる…ように私には見えます。まあそれはいいしある意味で自然なことなんだけれど、私だったらもう少し、
「私を帰して!」
 と言うシシィの態度にこそ魅せられた、と見えるようにしたい、といつも思っています。

 観客は恋物語を観るときに、ヒロインのつもりになって観たいものだと思うのですよ。
 だからこの作品に関しても、こんな時代、こんな境遇にたまたま生まれなかったけど、でも私はエリザベートだ、と思って観たいと思うワケ。少なくとも私はそうなんですね。
 でも容貌だけで死神を捕らえる自信はさすがに私にはないワケですよ。
 だから、のちに磨き上げて絶世の美女になったかもしれないけれど、現時点では、ちょっとは綺麗、くらいな、でもそれよりも快活さとか明朗さとかたくましさか、そういう「生きる力」を持っていることが最大のチャームポイントである少女だった、としてもらえると、エリザベートに同化しやすいワケです(^^;)。
 あと、トートをただの面食いにしたくナイ(^^;)。

 人は、男も女も、当たり前ですが大多数が「十人並み」の容貌をしています。
 だからこそこの言葉がある。しかし人のセルフイメージは、現実よりいつも少し上にあります。
 だから完全に凡庸なキャラクターでは見下してしまって観客は共感しない。
 かといって絶世の麗人には彼我の差を感じてしまう。だからこれくらいがいいワケ。
 容貌は中の上か上の下くらい。そして明るさとか闊達さとか、そういう魅力にあふれたキャラクター。
 それなら、自分でもなれる、手が届くような気がするのです。
 それが、それこそが、トートを捕らえた、としてくれると、ぶっちゃけもっと楽しく観られると思うのです。

 そもそも本当のエリザベートは、もっとメランコリックな気質の人で、現実と夢想のあわいを生きているような人だった、という説も聞きますし、だからこそ死神とも恋愛ができたのだ、とか、トートはもうひとりの彼女なのだ、とかの解釈もあることはもちろん知っていますが、私はそうは取りたくないワケ。
 私はわりと、トートとエリザベートの関係を、男と女、死と生、聖と俗、魂と肉…のように、対比として捕らえたい、と考えているのかもしれません。
 だからエリザベートにはまず、「ザッツ人間」であってほしいワケです。

 だからエリザベートは、放浪癖のある父親を愛し、詩を愛し自由を愛する一方で、弟たちと野山を駆け回ることが大好きなおてんば娘で、自分には無関心な母親と姉に群がる親戚たちの目を引きたくて綱渡りをやって見せるような元気で天真爛漫で生きる力にあふれている、野性的と言っていいくらい健康な少女、というふうにしたいのです。

 確かにちょっと綺麗ではある。だから最初はそれが「おっ」と目を引いた。
 しかし「私を帰して!」と堂々と要求したときの目の輝き、不遜と言ってもいい態度、凛とした佇まいこそが美しく見え、トートの心を打ったのだ…としたいのです。
 そういう形でなら自分にも死神の心が捉えられる気がするからです(^^;)。

 だって美しいだけのものなら見慣れているでしょう黄泉の帝王は。
 周りにそういうものをさんざん集めて侍らせて、飽きて捨ててまた集めて…の一周くらいすでにしていますよ。そんなんじゃ彼の心は揺れないはずなんです。
 死なない命はない、壊れないものはない。今まですべてのものが彼に屈してきました。
 なのに、「死神? 屈する? 何ソレおいしいの?」とか言って平然としているひとりの少女に出会った。だからこそ彼は今までに一度たりとも落ちたことのない恋に落ちたのでしょう?

 だが彼とてそう簡単にそれを認めるわけにはいかない。
 だから「帰してあげてもよくってよ」みたいな感じで(別におねえだってことじゃなくて、ニュアンスです)彼女の生還を許す。そして彼女を見守りはじめるワケです。
 愛と死のロンド、というかフーガの始まりです。


 そしてもう一点は、ラストについて。というかその直前。
 私は、トートがルキーニにナイフを渡すのがいつも納得できないんです。
 トートは、エリザベートを暗殺しようとする革命家たちから銃を取り上げたし、殺してくれと言ってきたエリザベート本人すら拒みました。
 欲しいのはエリザベートの命ではなく、エリザベートの愛だったから。
 死なせてしまって、殺してしまって手に入れることなんて簡単だった。
 でも彼は、愛されるのを望んで、待って待って待ってきたんでしょう?
 なんでここへきて殺そう、となってしまうのか?
 だって「殺してこい」ってルキーニを送り出しているも同然じゃん。おかしいよ。

 トートのために功をあせったルキーニが、ナイフを盗み出してエリザベートを殺しに行った、のならわかる。
 ルキーニはトートの愛を理解してはいなかったのだから。
 それか、最終弁論(でしたっけ?)でフランツに
「エリザベートが愛しているのは私だ。エリザベートはおまえのことなど愛していない、何故ならおまえは死神だからだ、死を愛する人間などいない」みたいなことをはっきり言われて、狼狽して取り落としたナイフをルキーニが拾う、とかね。
 あるいは、ルキーニにナイフを授けてしまったけれど、すぐに後悔する、とかね。
 そういう流れだったら、私は納得できるのだけれど。

 フランツの発言は図星だった。というかトートにはそう思えた。
 待って待って、追いかけて拒んで拒まれて、長くロンドを踊り続けているうちに、トートはわからなくなってしまったのではないでしょうか。自分がエリザベートに愛されているのかどうかが。
 というか、自分がエリザベートに愛されているのか、愛されたことがあるのかどうかすら、確信が持てないでいるのです。自信がないんです。
 だって自分は死神だから。生きとし生けるものには忌み嫌われて当然の存在だから。
 彼はずっと、いつかエリザベートが自分を愛し自分の前に膝を屈するのを踏ん反り返って待っている態でいますが、その実、内心はヒヤヒヤハラハラしているのですよ。
 そんな日は来やしないんじゃないかと思えて。愛される自信がなくて。
 恋する男は無力なのです。そう、黄泉の帝王は恋をしたことによって一介の男に成り下がっているのです。

 けれどナイフはルキーニの手に渡ってしまった。彼は彼女を殺すだろう。
 彼女は彼がトートの手の者だと見抜くだろう。どうしよう嫌われる。
 待つと言ったのに迎えを出した、非難される軽蔑される…
 トートは愛を失う怯えに身を震わせたのではないでしょうか。
 というか、そういうトートが私は観たい。

 エリザベートはルドルフの死後も生き続け彷徨い続け、旅先を訪ねてきた夫とも心が寄せ合えず、何を求めているのかもはやわからなくなりながらも、誰かがどこかで待っているような気がして、旅に旅を重ねている。
 そうしてたどりついたレマン湖のほとりで、ルキーニの向こうに、懐かしい人の姿を見る。
 自分の愛を求めて、ずっとずっと待っていてくれた人。
 支え、寄り添い、同じ道を歩んできてくれた人。
 甘えただけのときには厳しく拒んでくれた人。
 自分を生かし続けてくれた人…
 それは死神と呼ばれる存在であるかもしれない。死そのものであるとも言える。
 でも自分を愛し求めてくれる人でもある。生きて生きて生き抜いてきた今、
 その自分のすべてを捧げ与えるに足る唯一の相手だ。
 それが今、震えながら、自分の愛を請うて、そこにいる。
 もう、ひとつになってもいいのだ…!

 そしてエリザベートはルキーニのナイフに倒れ、しかしトートとともに昇天したのでした…
 という物語が、私は観たい。
 死が人間を殺す話ではなく。人間が死に逃げる話ではなく。
 トートとエリザベートが結ばれたのは、トートがエリザベートを殺したのでもなく、エリザベートが自死を選んだということでもない。
 トートはエリザベートが生き抜くのを待った。死神であるにもかかわらず。人間の女を愛したから。
 エリザベートは生き抜いた。人として生まれたからには生き抜かなければならなかったから。
 そうして、つらくても苦しくても生きて生きて生き抜いたからこそ、現世では残念ながら夫と紡ぐことができなかった至上の愛を最後に得た。
 もちろんタイミングがひとつ違えば、トートがエリザベートに魅せられることもなく、エリザベートはフランツと平穏な家庭を築き平凡な人生を送ったかもしれない(あるいは別のバイエルン貴族と?)。
 でもそれは「たられば」のこと。どちらがよかったとも言えない。
 トートもまたエリザベートを愛したことで死神とは違うものになってしまったのかもしれないのだし、ふたりは天上で永遠に幸せに暮らしました、なんてことではないかもしれない。
 昇天していくふたりは、今まで知らない新たな世界へ旅立つ怯えに震えているようにも見えます。
 でもふたりなら大丈夫、やってみよう…
 これはそんな物語なのではないのかな、と私は考えているのですが…
 ど、どうでしょうかね?(聞かれても)


(2011.12.5)


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