駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『二都物語』

2013年07月29日 | 観劇記/タイトルな行
 帝国劇場、2013年7月28日マチネ。

 18世紀後半。イギリスに住むルーシー・マネット(すみれ)は17年間パリのバスティーユ牢獄に投獄されていた父のドクター・マネット(今井清隆)が居酒屋を営むドファルジュ夫妻(橋本さとし、濱田めぐみ)に保護されていると知り、パリへ向かう。変貌した父との再会に動揺するが、ともに暮らすためにロンドンへ戻る。その船中、フランスの亡命貴族チャールズ・ダーニー(浦井健治)に出会う。彼は叔父のサン・テヴレモンド侯爵(岡幸二郎)の横暴に反発してイギリスに渡るところだったが、スパイ容疑で逮捕されてしまう。そのピンチを救ったのが弁護士のシドニー・カートン(井上芳雄)だった…
 原作/チャールズ・ディケンズ、脚本・作詞・作曲ロ/ジル・サントリエロ、追加音楽/フランク・ワイルドホーン、編曲/エドワード・ケッセル、翻訳・演出/鵜山仁、訳詞/佐藤万里。2008年ブロードウェイ初演、全2幕、日本初演。

 原作小説は昔読んだことがあって、宝塚歌劇版はアサコの再演版を映像で観ています。だからだいたいの筋は知識としては知っています。
 でも、欧米の観客にはディケンズは教養というか常識のうちなのかもしれないけれど、日本で日本人向けに日本語で上演する以上、もう少し丁寧に翻案・演出してほしいなと思いました。この当時のイギリスとフランスの距離感とか関係性とかは日本人にはわかりづらい。何より、キャラクター設定をもっと際立たせてほしいなと思いました。
 まったく予習せず、何の予備知識がなく観る観客にも、このキャラクターはこういう性格の人間でこういう立場の人間ですよ、という最低限の説明は必要だと思います。それがあるからそこ、観客はキャラクターに心を寄り添わせ、彼らがたどる物語を追おうとするのですから。それができなければ他人事になってしまっておいて行かれるばかりです。どんな感動的な歌唱も心に響きません。
 ことに客席に女性が多いタイプの芝居の場合、鍵を握るのはヒロインの造詣だと思います。私にはすみれの「娘役力」がまったく物足りなく思えましたし、演出もそれを補助してあげていない感じだったのが何よりもったいなく思えました。
 頭が小さく手首が長くて背が高い、恵まれたスタイルの女優さんですが、どちらかといえばハンサムウーマンタイプの外見であり、加えて声が低い。かつハワイ育ちということで日本語がかなり怪しい。そして立ち居振る舞いやドレスの扱いがかなり乱雑です。これで周りの男性がみんな守ってあげたくなるような「お人形さんのように可愛らしいお嬢さん」に見せるのはかなり苦しい。
 せめて、冒頭にハイソプラノで「お父様が生きていらっしゃったなんて!」とかなんとか叫ばせればいいじゃないですか。それだけで観客は彼女に同情するし、彼女のその後の運命の変遷を見守ろう、と思えるのに、そういう演出がまるでない。ただ須部とく告知を受けとめて、迎えにいって、再会して、連れ帰って…ただそれだけじゃ心は動きませんよ。
 可愛く見せる力、観客に好感を持たせる力、共感させる力がヒロインには必要なのです。女優になければ演出が助けてあげなくてはならない。それができていないから、冒頭からつまづくのです。冷えたままの客席の空気が、私にはたいそう居心地が悪かったです…

 ルーシーとチャールズの出会いの場面も何故ないのか、意味がわからない。ボーイ・ミーツ・ガールの物語において、三角関係のメロドラマにおいて、祖それぞれのファースト・コンタクトが大事なことはほぼ自明でしょう? チャールズが船室を譲ってくれた、などとあとから台詞で説明するのではなく、船室を譲るとチャールズが申し出てルーシーが感謝する場面を何故見せないの? そこで初めて彼らに生まれる感情を何故見せてくれないの?
 それでいうとチャールズの裁判の間に出会うシドニーとルーシーの出会いも描写がほぼなかった。裁判後、シドニーがいきなりルーシーの美しさを歌うので、えええいつ心に留めたの、よくわからなかったんだけど???と置いてけぼりにされました。
 シドニーとチャールズになんとはなしの友情が生まれる場面はよかったんですけれどね…

 そんな頼りない演出のせいで主役三人に求心力が生まれないため、周りにも話が振られる一幕は退屈でつらかったです。それがまとまりだす二幕はもう少しおもしろくて、もちろんラストは泣かされるわけですけれどね。
 芸達者揃い、ビッグナンパー揃いの公演が、もったいないです…
 あと、松井るみ以外の美術を久々に見ましたが、物足りなかったです。帝劇には簡素すぎたのではあるまいか…

 シドニーの前にギロチンにかけられるクローダン(保泉沙耶)がよかったなあ。彼女がルーシーじゃダメだったのかなあ。アスカやミホコのルーシーが観たかったなあ。
 ともあれ、自ら身代わりとなることを選んだシドニーと違って、彼女はほぼ完全に冤罪です。それで言うと彼女の前に処刑される侯爵一家も、貴族であることだけを罪とされて罰せられるのであり、理不尽と言えます。
 しかし恐怖政治によるものかはたまた災害によるものであるかはいざ知らず、人は罪なくして死ぬことがありえるのが世の中です。そんなシビアな現実を突きつける、今もなお新しい、不朽の名作のひとつではあるな、と原作の力強さを印象付けられました。




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