紀伊國屋サザンシアター、2021年3月9日17時。
作/井上ひさし、演出/栗山民也、音楽/宇野誠一郎、振付/新海絵理子、美術/妹尾河童。
配役は教授/山西惇、会社員/井上芳雄、アナウンサー/朝海ひかる、ストリッパー/小池栄子、ピアノ伴奏者/朴勝哲。
1969年初演、85年再演、以後92年、10年に上演。
2011年に観たときの記事はこちら。私の初・井上ひさし作品観劇でした。東日本大震災からまだ間がなくて、東京の街もまだ暗いころで、そもそも本当に上演されるのかなとかビクビクしながら行ったような記憶があります。
前回は、ピアノ伴奏者も演じた小曽根真の新曲で上演されたんですね。今回の音楽がもともとのものということなのかな。
私は女優になってからのコムちゃんがわりと好きで、それで今回チケットを取りました。ちょうどいい感じに作品の内容を忘れていましたしね(笑)。チラシや公式タイトにもあるとおり、劇中劇だよとかどんでん返しがあるよとかはまったくネタバレではないのですが、それでも綺麗さっぱり忘れていて、楽しく観ました。
基本的な感想は、前回と変わらないかな、と思いました。そして、これはいわゆるポリコレにきちんと添った作品だろうとも思いました。性犯罪や差別用語が出てくることが問題なんじゃないんです、それをいわゆるエログロナンセンスみたいなものとしてつい笑ってしまうこの世の中の空気の方が間違っているのだ、ということをこの作品は全身で訴えているのです。この戯曲はループするようにして終わるわけですが(1幕ラストといいオチといい、幕の降り方がまたいい仕事をすることよ!)、要するに未だ何ひとつ解決されていないという現状を厳しく訴えているのです。
そもそもは、作者が上京したときに東北弁が通じなくて吃音症を発症した、ということから着想された戯曲だそうですが、要するに問題は単なる障害差別とか地方差別とかLGBT差別とかではないということなのです。奪われようとしているものはその人の「言葉」そのもの、ひいてはその人の「尊厳」「人権」なのです。笑いにくるんだようでざらりとした嘘寒いものが残るよう、そしてそこから観客が本当に「尊厳とは」「人権とは」「矯正されるべきではないもの、奪われてはならないものとは」を考え出すよう、この戯曲は仕組んでいるのです。それを、芸達者な素晴らしい役者陣たちが、それこそ身体を張って何役もに扮して舞台を縦横無尽に歌い踊り動き回り、輝いてみせて、訴えているのです。そういう、素晴らしい戯曲だと私は解釈しました。私はけっこう選り好みしているので数をそんなにたくさん観ているわけではありませんが、井上作品の中でこの戯曲が一番好き、という人が多いというのには納得な気もします。冒頭すぐの台詞の「禿げ」という言葉だけでもう笑い人がいる客席なんですよ、世界はまだまだ全然改善されていないのです。この作品は上演され続ける意義があります。たとえ笑ったその人に届かなくても、観終えたときにその周りで理解した人は必ずいるはずなのですから。
ところで小池栄子もコムちゃんもそのストリッパーぶりはごちそうさまでしたが、細い人ってみんなあんな肋が出るものなんですねえ…イヤ人体の構造として正しいのでしょうが、やはりあれは痛々しくてセクシーじゃないよね…イヤ別にここは過剰にセクシーであっても困る場面なので、いいんだけどさ。てかコムちゃんは本当に適材適所だったんじゃないかしらん。どなたかのつぶやきで「清潔な演技」みたいな表現を見たのですが、まさにそれで、あの床に寝そべって悶えようと(笑)決して過剰でなく、適度にコミカルで適度に嘘臭くそれこそ芝居かがっていて、ネタバレしたときにきちんと納得できるのがすごいと思ったのです。
そして白地に黒のピンストライプのダボッとしたスーツでヤクザ役を楽しそうに演じるヨシオ・イノウエ・ザ・スターね…! 長い脚の正しい使い方をしてみせて、ちゃんち笑いを取っていました。さすがだわ。スラム出身で出世するにはヤクザしかない、ってどこの『ONCE~』かと思ったわ。それでいうと「ストリッパー・ソング」かな? ストリッパーたちがストライキを始めようと歌う歌は、『BADDY』の怒りのロケットを思わせました。
今年はあとは『化粧二題』『母と暮せば』『雨』を観たいと思っています。『父と暮せば』はまだわりと記憶があるので、今回はいいかな、と。いずれも楽しみです!
作/井上ひさし、演出/栗山民也、音楽/宇野誠一郎、振付/新海絵理子、美術/妹尾河童。
配役は教授/山西惇、会社員/井上芳雄、アナウンサー/朝海ひかる、ストリッパー/小池栄子、ピアノ伴奏者/朴勝哲。
1969年初演、85年再演、以後92年、10年に上演。
2011年に観たときの記事はこちら。私の初・井上ひさし作品観劇でした。東日本大震災からまだ間がなくて、東京の街もまだ暗いころで、そもそも本当に上演されるのかなとかビクビクしながら行ったような記憶があります。
前回は、ピアノ伴奏者も演じた小曽根真の新曲で上演されたんですね。今回の音楽がもともとのものということなのかな。
私は女優になってからのコムちゃんがわりと好きで、それで今回チケットを取りました。ちょうどいい感じに作品の内容を忘れていましたしね(笑)。チラシや公式タイトにもあるとおり、劇中劇だよとかどんでん返しがあるよとかはまったくネタバレではないのですが、それでも綺麗さっぱり忘れていて、楽しく観ました。
基本的な感想は、前回と変わらないかな、と思いました。そして、これはいわゆるポリコレにきちんと添った作品だろうとも思いました。性犯罪や差別用語が出てくることが問題なんじゃないんです、それをいわゆるエログロナンセンスみたいなものとしてつい笑ってしまうこの世の中の空気の方が間違っているのだ、ということをこの作品は全身で訴えているのです。この戯曲はループするようにして終わるわけですが(1幕ラストといいオチといい、幕の降り方がまたいい仕事をすることよ!)、要するに未だ何ひとつ解決されていないという現状を厳しく訴えているのです。
そもそもは、作者が上京したときに東北弁が通じなくて吃音症を発症した、ということから着想された戯曲だそうですが、要するに問題は単なる障害差別とか地方差別とかLGBT差別とかではないということなのです。奪われようとしているものはその人の「言葉」そのもの、ひいてはその人の「尊厳」「人権」なのです。笑いにくるんだようでざらりとした嘘寒いものが残るよう、そしてそこから観客が本当に「尊厳とは」「人権とは」「矯正されるべきではないもの、奪われてはならないものとは」を考え出すよう、この戯曲は仕組んでいるのです。それを、芸達者な素晴らしい役者陣たちが、それこそ身体を張って何役もに扮して舞台を縦横無尽に歌い踊り動き回り、輝いてみせて、訴えているのです。そういう、素晴らしい戯曲だと私は解釈しました。私はけっこう選り好みしているので数をそんなにたくさん観ているわけではありませんが、井上作品の中でこの戯曲が一番好き、という人が多いというのには納得な気もします。冒頭すぐの台詞の「禿げ」という言葉だけでもう笑い人がいる客席なんですよ、世界はまだまだ全然改善されていないのです。この作品は上演され続ける意義があります。たとえ笑ったその人に届かなくても、観終えたときにその周りで理解した人は必ずいるはずなのですから。
ところで小池栄子もコムちゃんもそのストリッパーぶりはごちそうさまでしたが、細い人ってみんなあんな肋が出るものなんですねえ…イヤ人体の構造として正しいのでしょうが、やはりあれは痛々しくてセクシーじゃないよね…イヤ別にここは過剰にセクシーであっても困る場面なので、いいんだけどさ。てかコムちゃんは本当に適材適所だったんじゃないかしらん。どなたかのつぶやきで「清潔な演技」みたいな表現を見たのですが、まさにそれで、あの床に寝そべって悶えようと(笑)決して過剰でなく、適度にコミカルで適度に嘘臭くそれこそ芝居かがっていて、ネタバレしたときにきちんと納得できるのがすごいと思ったのです。
そして白地に黒のピンストライプのダボッとしたスーツでヤクザ役を楽しそうに演じるヨシオ・イノウエ・ザ・スターね…! 長い脚の正しい使い方をしてみせて、ちゃんち笑いを取っていました。さすがだわ。スラム出身で出世するにはヤクザしかない、ってどこの『ONCE~』かと思ったわ。それでいうと「ストリッパー・ソング」かな? ストリッパーたちがストライキを始めようと歌う歌は、『BADDY』の怒りのロケットを思わせました。
今年はあとは『化粧二題』『母と暮せば』『雨』を観たいと思っています。『父と暮せば』はまだわりと記憶があるので、今回はいいかな、と。いずれも楽しみです!
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