駒子の備忘録

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遊◎機械/全自動シアター『ラ・ヴィータ』

2009年11月09日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 世田谷パブリックシアター、2001年10月16日ソワレ。
 人は誰しも、人生で二度主役になるという。一度は生まれ出るとき、もう一度は死にいくとき…死を目前にして、ひとりの男(白井晃)が人生を振り返る。父(陰山泰)、母(高泉淳子)、妻(山下容莉枝)、弟(平沢智)、娘(瀧山雪絵)、友人(小林隆)、愛人(秋山菜津子)との関係…自分が生きてきた意味はあったのだろうか。作・高泉淳子、演出・白井晃。91年に初演された高泉初のオリジナル戯曲の、10年ぶりの再演。全1幕。
 コンパクトで、客席と舞台が実に緊密ないい劇場で、美しい装置のもと8人の男女が過去と現実と幻想を描き分けてみせる、いいお芝居でした。よくできている佳品だと思います。
 ただ、好みじゃないとは言いませんが、あんまり興味がないというか、私には用がないモチーフを扱っているとは思いました。
 要するに私は、この主人公のようにナイーブでデリケートな人間ではないもので。もっと図太く生きてきてしまっているもので。あるいは、自分の人生に疑念を抱くような根性を持ち合わせていないもので、と言ってもいいです。
 ぶっちゃけて言うとこのお芝居の筋は、主人公が、上手く愛してもらえなかったので、上手く愛することを覚えられず、上手く愛せず、でたらめな人生を歩んできてしまい、死を目前にしてそれを後悔して、でも愛されていなかった訳ではないことに気づき、愛していなかった訳でもないことを再確認し、まず自分を大切にすれば人生は捨てたもんじゃないのだと言って、幸せに無に帰っていくというものです。ち、ちがうかな?
 でも私は幸福なことに、愛されて生まれてきたことを知っているのです。幸せになるために生きていくのだということを基本的に疑ったことがないのです。そう育てられたんですね、幸運なことに。
 そうでない人もいる、そんなふうに考えられない人もいる、ということも、今の私は知っています。
 でも、スタートが不運でも、チャンスはどこにでもあるもので、死ぬまですねてひとつことを思いつめる方がよほど根性がいるようにも思えます。楽になれる、幸せへの扉は、いつも、どこにでもあるのに。青い鳥は必ず身近にいるものなのです。
 主人公は、回想と幻想の中で幼い日の自分に出会い、目覚めます。それは嘘、まやかしかもしれません。関係を再構築するべき人の半数近くがすでに鬼籍に入り、自身もまた死の縁に立たされていてのことで、遅きに失したことだったかもしれません。でも、やっぱり、よかった。観客の中にも迷っている人がいれば、ひとつのヒントになったのではないでしょうか。ただ私は、自分だけの羅針盤を握り締めて
「迷子になんかなってないもん」
 とうそぶいている人間なので、あんまり関係なかったわ、ということなのです。
 でもひとつおもしろかったのは、私は主人公には似ていませんが、子供を持ったら主人公の母親のようにはなってしまうかもしれない、と思ったことです。
「完璧じゃないなら無の方がマシ」
 と言い放ち、無駄とか失敗とか冒険とかの価値を認めず、良かれと思って世話を焼き、結局は子供をスポイルしてしまう、そんな親。心当たりありすぎです。気をつけなければ…
 そんな母親と、幼い日の主人公を、同じ役者が演じる妙味(高泉の少年役は今回もやっぱり絶品!)。配役上たまたま、というのもあるでしょうが、やはり母親の影響というのは大きいのだろうなあ、と思います。それだけでも、女性というのはもっともっと尊重されていいのになあ。
 と、話がちょいと筋違いのフェミ方向に向いたところで、おしまいにすることにします。あ、パンフレットが上質で寄稿が的確だったことは特筆ものでした。
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