駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『SISTERS』

2010年03月11日 | 観劇記/タイトルさ行
 パルコ劇場、2008年7月10日ソワレ。

 時は現在、場所はうらぶれたホテル。新婚旅行を終えたばかりの馨(松たか子)は、夫の信助(田中哲司)に連れられて、信助の従兄(中村まこと)が経営するホテルを訪れる。そこには小説家の礼二(吉田鋼太郎)とその娘の美鳥(鈴木杏)が、もう何年も住み込んでいた…作・演出/長塚圭史。全一幕。

 途中までは、あまりに陰惨というか希望のなさそうな筋書きと設定と展開とに、「このままオチがないんだったらもうこの作家の芝居は観るまい、不快なだけだ」とか考えていたのですが、やはりオチはあったのでした。希望はなさそうだ、という絶望感、その悲劇の重さ、というオチが、きちんと。何も解決されないことが訴えるもの、というものが確かに舞台にはあるのでした。

 タイトルロールは、女たち、にも妻たち、にも、娘たち、にすらなれなかった、させてもらえなかった女ふたりです。その関係、存在は確かに「姉妹」としか表現しようがない。その皮肉、その恐ろしさ。
 子供は親にきちんと子供として育ててもらえなければ、「子供」になれないし、そのまま成長して「大人」にもなれないし、だから男とか女とか夫とか妻とかに成長していけないのです。そんなスポイルをしてはいけないのです、親は。なのにそうとしか生きられない、困った人間というものが、確かに存在してしまう。その恐ろしさ。
 馨は、隠して、無視して、なかったことにして、黙って、そして信助に愛してもらえたのに。それでもその愛は届かないのです。信助が呼びかける声に答える馨の最後のセリフは、かつて父親への命令の呼びかけに答えたときの声音と同じであったろうからです。
 愛はいつでもあるのに、巡り会えるものなのに、受け止められないよう育てられてしまう子供がいる、という悲劇。男は、人間は、弱いものだから、という、静かな、肯定的な、絶望。
 そんなものがある舞台でした。

 だからどうとか、それはいけないとか、そういうことは言っていない。私はどちらかといえばそういう、結論とか志があるものの方が好きで、ただ現象を描いて見せただけのようなものには冷たいのですが、それでもこの舞台の重さには、この舞台が訴える事実の重さには、肯かざるをえませんでした。
 舞台らしい空間の使い方やラストの演出なんかが素敵だったのはもちろん高ポイント。役者もみんなすばらしかったです。
 しかしどれだけ親にスポイルされたという思いがあれば、こんな芝居を思いつくのだろうかこの劇作家は…しかも彼は「父の息子」だがこれは「父の娘たち」の話なのだ。ううーむ、不思議だ…
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