駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『オン・ユア・フィート!』

2018年12月15日 | 観劇記/タイトルあ行
 シアタークリエ、2018年12月10日18時。

 幼い頃から歌うことが大好きなグロリア(朝夏まなと)は、キューバ移民の家族と共に開放的なマイアミで育つ。だがベトナム戦争への従軍で身体が不自由になった父ホセ(栗原英雄)の看病や妹レベッカ(青野紗穂)の世話に追われる日々を送り、内気な性格もあいまって音楽の才能を発揮できずにいた。そんな孫娘を気にかける祖母コンスエロ(久野綾希子)は、地元で名の知れたバンドのマイアミ・ラテン・ボーイズのプロデューサー、エミリオ・エステファン(渡辺大輔)にグロリアを引き合わせる…
 脚本/アレクサンダー・ディネラリス、音楽・歌詞・編曲/グロリア・エステファン、エミリオ・エステファン、翻訳・訳詞・演出/上田一豪。2015年シカゴ初演、日本初演。全2幕。

 グロリア・エステファンとマイアミ・サウンド・マシーンの名前は知っている、「コンガ」の曲も知っている、でもそれ以外の知識はゼロだし単なるアメリカのポップスターかと…という程度で、まぁ様目当てに出かけてきました。彼女の楽曲で綴る彼女の半生の話らしい、とは聞いていましたが、歴史上の偉人というほどではなく、まだご存命のというか全然現役のシンガーでしょ?と思っていたのですが、なかなかどうしてドラマチックな人生だったのですね。そして他にもけっこう聞いたことがある曲がありました。私は音楽にはかなり疎い自信があるのですが、やはりビッグなアーティストなのですね。
 こういう出自というか生い立ちの人だとということはまったく知らず、当時の、というか実はそんなに昔の話ではないのだけれど、ラテン音楽差別というかヒスパニック文化差別というかについても初めて知りましたが、今日的なテーマでもあり、なかなかに刺さりました。『ドリームガールズ』で黒人に対して行われていたのと同様のことが、ここではキューバ移民に対して、またスペイン語文化圏の人々に対して行われていたのですね。そして私たちはそうしたことを主にこういう作品を通して知るのです…
 グロリアはほとんど子供の頃に故国を出てしまいましたが、それでも故国にきちんと誇りを抱き、でも育ったのはアメリカでマイアミで話すのは英語で、だから英語で歌いたい、広く世界に自分の歌を届けたい、という想いは大それたことでも野望でもなんでもない、ごく純真な望みです。そこに立ちはだかる壁を少しずつ少しずつ壊して、グロリアたちは前進してきたのでした。
 たくさんに人に愛されるようになって、でもツアー続きにちょっと疲れて苛立って、そんなときに交通事故に遭って…自暴自棄になりかけ、でも家族の支えとファンからの励ましに再起する…ベタだけど実話なんだから仕方がない。そして舞台はことさらにドラマチックにお涙ちょうだいに盛り上げることなく、どちらかというと淡々と進み、でも芝居はしっかりやって、深く静かな感動を呼ぶのでした。家族にも愛や葛藤や衝突があること、それぞれの想いや事情、すれ違いや喧嘩…それでも愛情と思いやりとで隔たりを乗り越え、再び手をつなぐ。そしてスターにとっては星の数ほどいるファンでもファンにとってはスターは我がことのように愛し案じ心を寄せる存在であること…
 出演者がみんな歌も芝居も達者で、適材適所で、舞台をきっちり作り上げていました。芝居のパートとライブパートのバランスも良く、一幕も二幕もラストはスタンディングでノリノリで歌って踊って終われる、楽しくてチャーミングな作品でした。まぁ様にまさにお似合い!
 アンサンブルのダンスも素晴らしく、ことにルンバはキレキレで見ていてすがすがしかったです。でもその中に出てくるまぁ様グロリアが、タッパがあるしスタイルがいいからってのもあるんだけれどやっぱりそのオーラと押し出しとで「ハイ、スター来たーーーッ!」ってなるのが本当に気持ちよくて、素晴らしかったです。実は歌はちょっと心配していたのですがまったく危なげなく、けっこうハードに踊りながらもきちんと歌えていて、問題ありませんでした。ザッツ・主役です。むしろ『リビングルーム・ミュージカル』であんなに素晴らしかった青野紗穂ちゃんに意外に本編では歌がなく、フィナーレでやっとソロを取ってくれましたがちょっともったいなく思ったくらいでした。
 グロリアの子役もパンチある歌声で末頼もしかったですし、母も祖母も芸達者揃いで、父も夫ももちろん素晴らしく、いい座組でした。楽しかったです。


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宝塚歌劇花組『蘭陵王』

2018年12月15日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 KAAT神奈川芸術劇場、2018年12月9日11時。

 今から1500年ほど前の中国、斉と周が争っていた頃。雨に打たれてうずくまるひとりの少年(凪七瑠海)の類い希なる美しさに目を奪われた者たちは、少年に衣服や食べ物を与える代わりに彼を自分のものにした。より強い者が彼を奪い、同じことが繰り返された。あるとき北斉軍に捕らえられた少年は、行方知れずになっていた高家の王子・高長恭であることが判明する。強いことが生き残ることにつながると身をもって知る高長恭は武術の鍛錬に励むが…
 作・演出/木村信司、作曲・編曲/長谷川雅大、雅楽師・作曲・編曲・録音演奏/東儀秀樹、編曲/萩森英明、振付/花柳寿楽、麻咲梨乃。6世紀の中国に実在し、武勇と美貌で知られ雅楽や京劇の演目に残る武将の伝説をミュージカル化。全2幕。

 初日とは言わないまでも早めに観てアレコレわあわあ言いたいタイプの私にしては珍しく、DC遠征が叶わなかったばかりか東上公演も千秋楽前日にやっと観る、という有様でした。そこまで、届いてくる感想はトンチキで笑ったというものと宝塚歌劇の枠を超えた傑作だというものとで二分されていて、さて自分はどう感じるかな?と楽しみに出かけました。キムシン作品は私はあたりもあればハズレもある、という印象で(あたりまえかもしれませんが)、かつ蘭陵王に関しては、美貌すぎて軍を率いようとしても味方の士気が下がるので、鬼のお面をつけて戦ったという逸話がある武将…だとしか知りませんでした。今回のお話に関してはほぼキムシンの創作のようですね。しかしどこでこんな着想を得たのでしょうか彼は…!
 確かに鞍馬やヌンチャクはトンチキですよね。騎馬戦がダンスだったんだからカチャにだって踊らせればいいんだよ、それか前田慶次のときみたいな馬を出せばいいじゃん。ヌンチャクは、ヌンチャクそのものより、暗転して光って次に明るくなったら周りの兵士がみんな矢を受けて倒れていて、それはヌンチャクで弾き飛ばした矢なんだ、というちょっと新感線めいたことをただやりたかったんだろうなと思いました。
 美女ソングもスゴツヨと同類と言えば言えるし、あの歌詞やあのタイミングには明らかに作品としてきちんと意味があります。話の整合性がとれていないわけでもないし、『邪馬台国の風』や『CAPTAIN NEMO』のようなトンチキとは彼我の差があると言えるでしょう。
 私は好きだし、感動しました。ただ、引っかからなかったわけではない。ともあれ、観られてよかったです。

 美貌ゆえに陵辱される子供、というネタ(あえてこの表現を使用します)自体はたとえばライトノベルとかそれこそBLとかではけっこうよくあるものだと思うのです。でも、それは立派な犯罪ですからね。そういうものが存在する世界での物語を描く、ということがそもそも宝塚歌劇のスミレコードに抵触するのではあるまいか、と私はけっこうざらりとしました。 もちろん宝塚歌劇のキャラクターに悪役はたくさんいますし、犯罪や違法行為が描かれることも重要なモチーフになることも何度もありました。でも、児童(性的)虐待はそれらとはちょっとレベルの違う犯罪、人権侵害行為だと思いますし、性善説に立ち家族が安心して鑑賞できるとされる宝塚歌劇が扱う作品世界にはそぐわないものなのではないかと思うのです。
 子供の性別は問題ではなく、同性愛ならよりファンタジックになるかというとそんなものでもない。子供を性愛の対象とすることは人権侵害であり犯罪です。性指向はどんなものでも正常とされ平等とされるへきだ、みたいな言い方で小児性愛を正当化しようとする向きもありますが、異常かどうかはともかく、未成年を対象としている時点で社会的に、法治国家的に犯罪なのです。
 宝塚歌劇でやるとなると被害者も加害者もタカラジェンヌが演じるわけで…ううーむ、ざらりとしました。しかも我々、つまり観客の大多数である女性は、年齢こそ子供でないにしても、弱い立場だからということで搾取されることがままある現実に生きている存在で、最近はさまざまな問題が顕在化されてきてはいるけれど改善されてきているとはまったく言いがたく、つらくしんどい状況で、そんな中で愛とロマンの宝塚歌劇を観に来てすらコレかい…とちょっと心折れる気がする人が多かったりはしなかったのでしょうか。私は少なくともちょっと萎えました。現代演劇はあらゆるものを対象になんでもどう描いてもいいのだとは思うのだけれど、宝塚歌劇ってやっぱりそういうものではないのではないのかなあ…と、ホントざらりとしたのです。
 ただ、語り部(京三紗)の語りが素晴らしく、カチャの子供芝居も素晴らしく(子役に演じさせなかったのは大正解だとと思う)、だからなおさらリアリティとそれによるいたたまれなさが大変なことになっていました。
 ものごころついた頃から家族に疎まれ傷つき、それは自分が拾われっ子だったせいだと知って家を出て、でもどこにも行けず、誰かに拾われては食事や衣服や居場所を与えられる代わりに慰み者にされ続ける…それがどういうことなのか、自分だけの身に起きることなのか、誰でもそういうものなのか、怒ったり泣いたりすべきものなのか、彼にはわからないのです。まっとうな指針が彼の中に育っていないからです。誰も彼に正しいことや正しいものの在り方を教えなかったからです。彼はそれほどに不幸で空っぽだったのでした。いっそ獣であったなら、どれほど楽だったことでしょう。
 でも、死にたいと思ったことはなかった。そう発想できるほどの知識もなかった、のが正解かもしれません。ともあれ彼は生き延び、王家の出身だとわかり、さらに生き残るべく武芸に鍛錬し、とりあえず彼を搾取しようとする者はしばらくはいなくなった…
 師匠への敬愛は覚えたかもしれませんが、彼はあいかわらず人としてほとんどすべてが欠けたままで、戦に出て戦うのも別に故国のためとか名誉のためとかそういうことではないのでしょう。ただ言われたからやる、できちゃうからやるだけで。やらないと死ぬから、死にたくないからやるだけで。
 だから洛妃(音くり寿。もともと好きだけど今回ベスト・アクトだと思いました!)の命も救う。自分が生き延びたいから、相手もそうだと思うから。ただそれだけ。
 こういう関係性のふたりにいつしか愛が芽生えて…というのも実はよくある展開だけれど、今回のそれはまた一捻りあるところが素晴らしい。彼女もまた彼と同じように小さい頃から陵辱され、その一方で暗殺技術や誘惑の手練手管を仕込まれて育ったのでした。食事や衣服や居場所を与えられていたのではない、尊厳を奪われてきたのです。
 これは、奪われ貶められ尊厳を傷つけられてきたふたりが、そのことに気づき、怒り、立ち上がり、おのが尊厳を取り戻し、手に手を取って脱出する物語です。こんなものをモチーフにした宝塚歌劇は今までなかった。宝塚歌劇らしからぬものかもしれません。でも宝塚歌劇でないとこうできなかったかなとも思います。現代演劇だともっとしょっぱくなるでしょう。こんなふうにはハッピーエンドにできず、下手したらデッドエンドの悲劇にして終わるでしょう。でも宝塚歌劇は違うのです。ふたりで立ち上がって敵に向かってメンチ切るところで終わるどころか、そのあとの、無事に逃げ延びて幸せな暮らしを送るふたりまで見せる。こういう爽やかな、希望あふれるハッピーエンドのラストシーンを描くてらいのなさ、強さがある。こんな世界を扱いつつも、世界と人と愛の強さを信じている。そこにこそ宝塚歌劇の特殊性があるのかもしれません。
 それともキムシンの特殊性なのだろうか…やはり宝塚歌劇の枠を超えている気はするし、でもこれを宝塚歌劇団の座付き作者としてやってのけちゃうキムシンのアヴァンギャルドさと革新性、天才性をこそ評価すべきなのかもしれません。本当に、どこから着想を得たのでしょう…
 それからすると、高緯(瀬戸かずや)の描き方はちょっと中途半端だったかな…というか、もうちょっと深いドラマにできそうな気もしたのに、そこまで手が回っていなかった印象を受けました。キムシンが現代的なテーマとして児童虐待を取り上げようとしたのと並びで、LGBT問題も流行りだよね、みたいな感じで手を伸ばしたのでないことを祈ります。でもちょっと怪しい…というかキムシンを、これくらいの世代の男性作家を全然信用しきれない自分がいるのです…
 高緯はオネエとかいうより性同一障害の異性愛者であって、別にゲイでもなんでもないんですよね。最初のソロは私はけっこうきゅんときてかつドシンと来ました。要するに女子の、一人娘の悲哀を歌っているようなところがあるじゃないですか。普段はやりたい放題できて楽しくていいんだけれど、一朝事あらば皇太子として軍を率いなくてはならない…みたいなのは、そんなむさ苦しくてマッチョなのは好みじゃない、ってのもあるけれど、そういう責任の重さに耐えかねる、しんどいって話なのであって、すごく共感しちゃったんですよね。でもがんばる、だって私は皇太子だから、と歌う高緯のけなげさに泣きそうになりました。
 で、蘭陵王のことをイケメンの頼れる親戚ができてひゃっほーい、と言っているうちはよかったんだけれど…という展開になります。
 高緯自身は何も言っていないし指示もしていないけれど、周囲の取り巻きたちが勝手に蘭陵王を危険視して、というかある種凡庸な高緯が皇位に就いてくれた方が彼ら自身が好き勝手できるので、という打算があって彼らは蘭陵王を排除しようとするのだけれど、実際に逍遙君(帆純まひろ)が彼を毒殺しようとするくだりで私はちょっと話がわからなくなってしまったのでした。毒を盛ろうとしたのが逍遙君の仕業だと判明した、というか逍遙君がそう自白したんだから、蘭陵王が投獄されるいわれはなくない?
 あと、最後の最後に逍遙君が女言葉になるのには強烈な違和感がありました。高緯は女として男の逍遙君を愛していたのであり、逍遙君は応じていただけだったとしてもあくまでも異性愛者の男性で、少なくとも女言葉をしゃべるようなタイプの同性愛者ではなかったのでは?と思ったからです。ただ、高緯の想いが蘭陵王にあることを彼なりに感じ取っていて、彼は彼で蘭陵王を殺す動機があった、というのはいいドラマだったんですけれどね。
 そして高緯の蘭陵王への愛はああいう形でしか表されることはなく、となるとそれは蘭陵王がもはや絶対に受け入れられないもので、ふたりは決裂するしかないのでした。
 高緯が王になってのち、国が荒れたと広寧王の妻(花野じゅりあ)が語り、その背後で世捨て人のようになった敗走の大将が舞台を横切りますが、顔も見えませんがそれもまたあきらに演じさせるというキムシンの鬼っぷりよ…!
 一方で、名も捨てた蘭陵王と洛妃は、今度はきちんと言葉で愛を確かめ合い、ふたりで幸せに生きていくのでした。田舎であの美貌は目立ちすぎるのでは…という点は華麗にスルー(笑)。相聞歌のようなリプライズにはシビれました。
 くりすがめいっぱい情感たっぷりのいい芝居をしまくり、もちろん歌は素晴らしく、そこにカチャの硬質な美貌と固い演技が冴えてハマって、歌も珍しく(オイ)危なげがなくて、専科生が素晴らしい仕事をして、あきらもせのちゃんも良くて、娘役ちゃんはみんな可愛くでも兵士のバイトもがっつりして、下級生ばかりの男役さんたちもしっかりがんばって、緻密ないい別箱公演だったと思います。装置も素敵でした。フィナーレの雅楽っぽいデュエダンも本当に素敵でした。
 舞台、フィクション、宝塚歌劇の懐の広さや可能性というものをいろいろ考えさせられました。まだ、ただ、また、生きられる。そのことに感謝して、進まなくてはなりませんね。
 




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