駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『日本の歴史』

2018年12月08日 | 観劇記/タイトルな行
 世田谷パブリックシアター、2018年12月5日18時半。

 ひとつの家族の歴史が日本の歴史をなぞっている、ホームドラマ・ミュージカル。
 作・演出/三谷幸喜、音楽/荻野清子。全2幕。

 七人の芸達者揃いの役者が何十役にも扮して歌い紡ぐミュージカルで、シンプルな美術が生き、役者の個性と技量が素晴らしかったです。初ミュージカルだという中井貴一の孝謙天皇とか宮澤エマの平清盛とか性別の超越もなんのその。そしてオカロの硬質な美貌がとても生きていました。ナンバーもたくさんあって、着替えも大変だろうけど歌もそもそも覚えるのがホント大変だったろうなと感心しましたが、みんなホント上手いんで、安心して楽しめました。
 ただ、作品としては、私は結局のところよくわかりませんでした。テキサスのとある一家で起きるさまざまな感情のドラマは日本の歴史がたどってきたことと同じだ、というコンセプトはわかりましたし、それは国や時代が違っても人間って結局同じだ、みたいなことなのかなとか思いましたが、では何故テキサスなのか? 土地から金、そして娯楽へみたいな変遷が日本の国の在り方と似ているということなのかもしれないけれど、要するにあそこはラスベガスになるってことなんじゃないの? だとしたら歴史はショーだショーは歴史だ、人間の営みはショーマストゴーオンだ…みたいなまとめになるのかな?とか思っていたのですが、特にそんなことはありませんでしたよね? いや、別にオチが私の予想どおりでなくても全然いいんですけれど、でも、じゃあ、オチてました? この話。1幕ラストはイケコ一本立ての1幕ラストもかくやという全員の歌い上げで、内容的にもああ1幕ラストねとわかりましたけど、2幕ラストが来たときには私は「え? 全員揃って歌い出しちゃったけどコレで終わり? 直前の場面なんだっけ?」となりました。だってパット(宮澤エマ)はジュニア(川平慈英)を失ってこの家族には跡継ぎがいないし、トーニョ(香取慎吾)も出自を認めたはいいものの恋人には去られちゃったじゃないですか。このふたつの家は途絶えてしまうのではないの? いやカール(新納慎也)やジョセフ(中井貴一)に子供がいたのかもしれませんが、それは描かれていないのだし。それともそんな感じで日本も終了って話? 歴史の先生(秋元才加)は出産しているので、そこには続く新たな命があるわけですが…
 もちろん、あえて今回はここまでで、だって続いているんだから、という中途半端感をあえて、わざと出したかったのかもしれませんが…ううーん、私はそこはよくわかりませんでした。因果、というのも正直よくわかりませんし。
 舞台としてはとてもおもしろかったんだけれど、戯曲としてというかお話としてはよくわからなくてあまり感心しなかった、という残念な観劇でした。豪華キャストで人気の演目と聞きますが…私は三谷作品にはわりと当たり外れがあると感じるタイプなので、そのあたりもあるのかなー。大好きで大絶賛の方、すみません。

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三浦しをん『ののはな通信』(角川書店)

2018年12月08日 | 乱読記/書名な行
 横浜のミッション系お嬢様学校に通う、野々原茜と牧田はな。庶民的な家庭で育ち、頭脳明晰、クールで毒舌なののと、外交官の家に生まれ、天真爛漫で甘え上手なはなは何故か気が合い、かけがえのない親友同士になるが…女子校で出会い、運命の恋を得た少女たちの20年超を全編書簡形式で紡いだ女子大河小説。

 後半に出てくるメルアドから類推するに彼女たちはおそらく1967年生まれと設定されているようなので、私とはほぼ同年代です。でも私は女子校育ちではなく、ののかはなかと言われればののっぽいかと思うけれど、はなと出会うこともなく生きてきてしまったのでした。 とてもスリリングに読み進みましたが、間がこんなに飛ぶ構成になるとは思ってもいなかったし、こういうふうに終わるお話だとも思っていませんでした。これでも、長い彼女たちの人生(まあ、はなの生死は不明だと言ってもいいのかもしれないけれど)の半分でしかないと思うのだけれど、あえて、ここで切った物語だということなのでしょう。いろいろなタイプの物語を紡いできた作家だけれど、そして私はそのすべてを読んでいるわけではありませんがしかし、その彼女をしてこういう物語を書かせるくらい震災というものは大きなものだったんだな…と、なんかそんなことの方に衝撃を受けました。いや、作家がどこからこの物語を着想したのかとか、どこをメインに描きたいと思っていたのかとかは、私にはわかりませんが。少なくとも単なるユリ小説とかではないかと。
 後半の展開には私はちょっと平野啓一郎『マチネの終わりに』を思い起こしたりもしましたが、オチは完全に真逆と言ってもいいと思うので、それは作家の性別とか歳によるものなのだろうか、とかも考えたりしました。
 ののもはなも結果的に子供を持っていませんが、つなぐ次世代を持たない者は世界丸ごとへ向かうものなのでしょうか。私も、何か世界のために役立ちたいとか考えないではないのですが、東北にも行かずアフリカの難民キャンプにも行かず、東京でひとりで生きています。猫もいない。それを突きつけられたような気がしました。
 愛を知らないつもりはないのだけれど、何もしていないと言われたらそうかもしれません。 ただ、まだ人生折り返し地点だから、と思って逃げることはできています。誰かへの手紙ではなく、主に自分のための記録としてのこうしたブログを書いているところが私と彼女たちとの違いかもしれないし、けれどここもまた誰かに読まれているだろうとは思っているので、その意味で同じと言えば同じなのかもしれません。生きている、生きていられている、そして誰かに語りかけている、いられる、ということが、大事なのかもしれません。




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