宝塚大劇場、2016年7月22日15時(初日)、23日11時、24日11時、31日11時、8月7日11時、9日13時、18時(新公)、13日11時、15時、14日11時、15時、15日13時、20日11時、21日15時、22日13時(千秋楽)。
初日雑感はこちら。
Bパターン&大劇場新公雑感はこちら。
Aパターン雑感はこちら。
すべて日記レベルのもので、本来はひとつの演目についてマイ楽を迎えてからちゃんとした感想というか批評記事をまとめて上げることにしているのですが、今回は特別に、現時点でちょっとだけ、書いておきます。
大劇場千秋楽翌日にみりおんの卒業が発表され、東京公演はますますチケ難になるかもしれませんしね。何よりチケットが回ってきても、フラットに観られなくなりそうです。てもそれだけ、お披露目公演でもサヨナラ公演でもなかった、ごく通常の、かつ円熟期の公演として観られた大劇場公演があったことは、本当にありがたかったです。
みりおんの、浮世離れしたところのない、地に足付いた芝居、家族にも夫にも情愛があることが見えたことが、今回の『エリザベート』の方向性を決定付けたのではないでしょうか。ゆりかフランツもそれに応えて、ヘタレすぎたりマザコンすぎたりする役作りになることなく、真面目で誠実でちょっとだけ不器用そうなキャラクターになっていてとても良かったですし、そんな父母と対峙するルドルフも三者三様のあり方になっていてとてもおもしろかったです。
そして何よりまぁ様が、キャラクター的に「死神」タイプなんかじゃないだけに、それでもクールなビジュアルにしっかり作り上げてきて、残酷だったり俺様だったりするんだけれどでも、根底には生来の優しさとか包容力とかが見えてそれが悩み惑う人間たちを根気強く待ってくれている神様(死神だけど)になっていて、素晴らしいトートだと思いました。
だから全体としてのエキセントリックさが薄れた場合の、ルキーニのあり方がより難しいのかもしれませんね。私が気になっているのはルキーニがシシィを刺したあと、単純に言えばまぁ様が階段下りてきてみりおんが喪服を脱いで最後の場面のお衣装になるまでの時間を稼ぐための、警官と揉み合って哄笑する何十秒かが、もあちゃんスターレイの叫び台詞がちょっと聞き取りづらいせいもあって場面が埋まっていない感じがするところです。愛ちゃんの演技がどうとかいうより、演出の問題の気がするのですけれど。あのあたりが肝なのかなーと思ったりもします。あとそのあと、ルキーニが上手にいてトートがどセンターで登場してシシィが下手に現われるところ。これでバランスが取れているのかもしれないけれど、でもこの三人は三角関係とかではないじゃないですか。トライアングルを作っているのはトートとシシィとフランツ、あるいはトートとシシィとルドルフであって、今回のルキーニは特にトートしか見ていなくてシシィのことは眼中にない気がするし。そしてルキーニがハケちゃうと上手は空っぽになってしまう。宝塚歌劇だから、主役だからトートがセンターにいるのは当然のような気もするけれど、シシィと対等に左右ちょうどいいバランスに立っていたほうがいい気もするし、私はなんかモヤるのでした。
でもここまで、みっつの印象的な「違う!」という台詞があって、それは運動の間でシシィがトートに「おまえが愛するのはこの俺だ」と迫られて言う「違う!」と、ルドルフがエルマーに「救世主になれる」と請われて言う「違う!」と、最終答弁でトートがフランツに「あなたは怖れている、彼女に愛を拒絶されるのを」と糾弾されて言い返す「違う!」なのですが、そういう「抵抗」がここまで物語を推し進めているのだな、と改めて思います。そしてフランツに「違う」という台詞はない。内心では母ゾフィーに対しても妻エリザベートに対しても息子ルドルフに対しても思ったことがあったでしょう、でも彼は口には出さなかった、ただ黙々とがんばった人なのでしょう。そしてルキーニは裁判官には抗弁するけれど、そもそもそういうポジションにはいない。そこが肝なんだろうなあ、と思うのです。彼は抗うことなくただ漂っている、まさに浮世離れして見せる必要があるのでしょうからね。そういう独特な存在感が出てくると、より深くおもしろくなるんじゃないのかな。愛ちゃん、期待しています。
あとはもう、ルドルフ語りですね。というかこうなるとホントは東京もCBAの順で観たかった。役者の負担は別にして。
だって絶対りくくんもずんちゃんも芝居が変わってくると思うんですよ、他のルドルフを見て。それを見てのさらなるあきルド、が見たかった。まあこの中では意外にそういうことで芝居が変わる人ではないのではないかしらん、と思わなくもないのだけれど。
何度か書きましたが役替わりなんてそのうちの最下級生を上げるために劇団が仕組むものに決まっていて、大劇場初日と東京千秋楽とDVD収録をCパターンにするってのもそういうことなんですよ。でもどうせブルーレイを出すんなら、どんなに高額になろうとも全パターンをフルで収録してほしいです。受注清算にしたっていいんだからさ。周りのみんなの演技はみんな違うんだから、ツギハギで編集するのは捏造に近い。せめてルドルフ登場場面はすべて収録して、革命家たちも抑えてほしいです。三人の生徒はルドルフ役だけを役替わりしているのではないのですから、きちんと取り上げないのは不当です。脚本を収録しないなら「ル・サンク」だって写真くらい全パターン抑えてほしかった。だって写真は舞台稽古のものじゃないですか、なら初日前にひととおりやったはずでしょう。
贔屓が絡んでいるから言っている、ということもありますが、仮にも均等に上演したんだから(例えば『ローマの休日』のAB役替わりは公演回数の差から扱いに軽重があるとされても仕方ないと個人的には思います)公平に扱ってくれよ、とは言いたいです。もちろんそもそもは役替わりに入れていただけただけでありがたいんですよ、それは発表時の日記でも書きました。ずんそらもえこでやってたっておかしかなかったと思ってましたから、もう大臣とかなのかなって思ってましたからね。でもやるならちゃんとやってくれよ、と言いたいってことです。だって生徒は本当にがんばってやっていて、かつちゃんとしていたんですから。みんな好評だったんですから。絶対に大変だったはずなのに、三人ともあんなに痩せちゃったのに。報いてあげてほしいです。
三者三様のルドルフ、本当におもしろかったなあ。どうしても中の人のイメージを重ねて見てしまうところがありますが、役者の持ち味とか個性ってそういうものだとも思うし。思い込みもあるかもしれないけれど、新たな発見もあって楽しかったです。
以下、本当に私個人の感想となりますが、ずんちゃんルドルフは最初に観たせいもあって本当に正統派だったかなと思います。あと初日から本当に完成されていて、技術的にしっかり確立されていました。遅れて来た宙95期だけれど、私は大事にじっくりド路線で育てられてきたスターだと思っていて、すごく買っているんですよね。
そういう点を評価しているからか、なんかすごく「急進派」に見えました(^^)。確信犯的というか、新興勢力というか、ホントにがっつりパパとケンカしている感じというか。鞭の傷跡のことをガチで恨んでいると思う。思春期的な青さもあるんだけれど、フランツがホントに手を焼いていて苦々しく思っていそうな。
上手く転がったら革命も独立も成功したかもしれないんだけどねー、組んだ相手がロイヤルすぎたかなーというか(^^;)。ジュラとツェップスは固定だから別にして、あきりくじゃホラやっぱ甘いお酒で女子会してそうじゃないですか。
でもずんルドはあきエルマーに理想の父を見ていましたよね、だから組んじゃったんだよね。ごめんね?(私が謝っても)
ママに対しても、同期だからというのもあるけれど、すごく頼っていたとか傾倒していた、心酔していたという重さはあまり感じられなくて、でも最後の砦が崩れてバッキリ打ち倒された…という感じがしました。あと上着脱ぐのが上手い(笑)、素晴らしい。
りくルドルフは本当に甘くて優しかったよね、いい子だったよね。この息子に対しては、フランツは自分ががんばって振り切ってきた弱さや優しさを彼の中に見るようで、歯がゆかったり幻滅したりしていたんじゃないかな、と思いました。本当は似ているのにね、この父子こそが鏡なのにね。
普段のりくの、本当によく気を遣ういい子なところを知っているだけに、そんなりくルドが小さいころ放任でかまってもらえなかったなんてそりゃ泣いちゃうよ寂しがり屋さんになっちゃうよ、って感じでした。お勉強も本当は好きじゃないし、政治のことも両親の関心を買う手段にしか過ぎなかったようなところがあるかもしれないけれど、とにかく一生懸命だったんだよ、と守ってあげたくなるようなルドルフでした。トートからしたらぺろりと一口丸のみ、みたいな。
まどかの子ルドもこのころから本当に歌い方、芝居を変えているなという印象でした。
そしてあきルドはねえ…どうしてあんなふうに育っちゃったんでしょうねえ…
例えば初めて台詞を言う場面、のっけから「闇が広がる」の前奏が流れているんですよね。普通は討論場面がもともとあって、途中どこかで空気が変わる演出として音楽が入ってくるじゃないですか。つまりこのくだりには描かれていないだけで前半パートがあるのであって、つまりこの父子はずっとずっとこういう平行線の議論を重ねてきたのだ、というのが初めてわかった気がしたのでした。この場面はトートとの「闇広」との前振りなんかではなくて、さんざんされてきた父子の対立場面の最後の一押しだったのだ、ということです。
つまりそれくらい、あきルドは皇太子として、次期国王としてきちんと立っているように見えました。優秀で聡明で賢明で堅実で、国家と国民と一族と世界を見ていて、みんなによかれと思っていろいろ考えていていろいろ提案しているのに、父の理解が得られない。それでがっくり膝を突いてしまう…(どうでもいいけどそのあと顔を覆いながら仰向く必要以上に色っぽい振りってなんなんでしょうね? 怒りすら湧いたわ…!(笑))
ものすごく優秀で、フランツもものすごく期待していたんじゃないかなあ。自分の方が古いのだろうか、間違っているのだろうかと怯えることがあるくらいだったんじゃないのかなあ。最後の最後の最後まで、ああは言っても自分の跡継ぎはルドルフしかないと思っていただろうし、まさか自死を選ぶとは…と驚愕し動揺したと思う。葬儀での悲嘆が一番激しかった気がします。
愛情をかけられずに育ったわりには曲がらずまっすぐに育ったのに、やっぱり満たされないうつろな部分はあって、そこにトートはするりと入ってきちゃったんですよね。ルドルフを翻弄するトートのまあ楽しそうなことと言ったら!
そしてママ。ママのことも敬愛していて尊敬していて、本当にその帰りを待っていて。話せばわかるはずだと思っていて、信じていて。でもシシィは本当にいろいろ疲れていたんだろうなあ、だからこそ家に帰ってきたんだろうし、そんな精神状態では息子のそんな話はとても聞けなくて、つい甘えて逃げたんだろうなあ。また今度、ゆっくりね、って。そういうふうに、責められないなと思えたシシィはなかなかいなかったかもしれません。
でもそれでルドルフは折れてしまった。というか、それでもまだ彼は立ちあがれたかもしれなかったのに、トートが待てなかったんですよね。そりゃ美味しそうな獲物でしたでしょうよ、ゆっくりねちねちしゃぶりつくされて小さくなっちゃったからあんな小さな棺に収まるようになっちゃったんだよ!(違います)ああ悲しい、ああせつない、ああ色っぽい…
普段はホントにほややんとしている人なのになあ、なんであんな濃く深く激しい芝居ができるんだろうなあ。上着の脱ぎ方は東京でがんばってもらうことにして(オイ)、ますますの濃さ、深み、激しさを期待しています。ホント、よくある、ちょっと病的な優男に作ってくるのかなとか思っていたからさー。強くて意外だったなあ、そして惚れ直しました。私はファンイチ贔屓を信じてない自信があります…(笑)それで言ったら中の人が心配すぎてまだ泣けていませんから! 『激情』とか二度目から号泣だったけれど(初日はやはりいろいろ心配で、あといろいろおもしろすぎて泣くどころではなかった)、やはり愛のあり方が違うんだよなあ。重くてめんどくさくてすみません。ホントは役と物語に没頭して泣きたい派なんですけれどね。でもそれが私の愛なんだ!
それで思い出したけれど、病院場面でシシィとヴィンディッシュが扇を交換する演出が復活したのは素晴らしいと思うんだけれど、トートがエルマーから取り上げた銃をルドルフに渡す、という演出は何故なくしちゃったのかしらん? はっ、なーこたんにお手紙書いたら東京から直るかな? 私はあれはとてもいい皮肉というか、トートっぽい行動だなと思うんですよね。かつて母を狙った銃口を自分に向けることになる息子、というのも泣かせると思うのです。泣いてないんだけど。復活希望!
というワケで、東京でのますますのブラッシュアップを期待しています!
初日雑感はこちら。
Bパターン&大劇場新公雑感はこちら。
Aパターン雑感はこちら。
すべて日記レベルのもので、本来はひとつの演目についてマイ楽を迎えてからちゃんとした感想というか批評記事をまとめて上げることにしているのですが、今回は特別に、現時点でちょっとだけ、書いておきます。
大劇場千秋楽翌日にみりおんの卒業が発表され、東京公演はますますチケ難になるかもしれませんしね。何よりチケットが回ってきても、フラットに観られなくなりそうです。てもそれだけ、お披露目公演でもサヨナラ公演でもなかった、ごく通常の、かつ円熟期の公演として観られた大劇場公演があったことは、本当にありがたかったです。
みりおんの、浮世離れしたところのない、地に足付いた芝居、家族にも夫にも情愛があることが見えたことが、今回の『エリザベート』の方向性を決定付けたのではないでしょうか。ゆりかフランツもそれに応えて、ヘタレすぎたりマザコンすぎたりする役作りになることなく、真面目で誠実でちょっとだけ不器用そうなキャラクターになっていてとても良かったですし、そんな父母と対峙するルドルフも三者三様のあり方になっていてとてもおもしろかったです。
そして何よりまぁ様が、キャラクター的に「死神」タイプなんかじゃないだけに、それでもクールなビジュアルにしっかり作り上げてきて、残酷だったり俺様だったりするんだけれどでも、根底には生来の優しさとか包容力とかが見えてそれが悩み惑う人間たちを根気強く待ってくれている神様(死神だけど)になっていて、素晴らしいトートだと思いました。
だから全体としてのエキセントリックさが薄れた場合の、ルキーニのあり方がより難しいのかもしれませんね。私が気になっているのはルキーニがシシィを刺したあと、単純に言えばまぁ様が階段下りてきてみりおんが喪服を脱いで最後の場面のお衣装になるまでの時間を稼ぐための、警官と揉み合って哄笑する何十秒かが、もあちゃんスターレイの叫び台詞がちょっと聞き取りづらいせいもあって場面が埋まっていない感じがするところです。愛ちゃんの演技がどうとかいうより、演出の問題の気がするのですけれど。あのあたりが肝なのかなーと思ったりもします。あとそのあと、ルキーニが上手にいてトートがどセンターで登場してシシィが下手に現われるところ。これでバランスが取れているのかもしれないけれど、でもこの三人は三角関係とかではないじゃないですか。トライアングルを作っているのはトートとシシィとフランツ、あるいはトートとシシィとルドルフであって、今回のルキーニは特にトートしか見ていなくてシシィのことは眼中にない気がするし。そしてルキーニがハケちゃうと上手は空っぽになってしまう。宝塚歌劇だから、主役だからトートがセンターにいるのは当然のような気もするけれど、シシィと対等に左右ちょうどいいバランスに立っていたほうがいい気もするし、私はなんかモヤるのでした。
でもここまで、みっつの印象的な「違う!」という台詞があって、それは運動の間でシシィがトートに「おまえが愛するのはこの俺だ」と迫られて言う「違う!」と、ルドルフがエルマーに「救世主になれる」と請われて言う「違う!」と、最終答弁でトートがフランツに「あなたは怖れている、彼女に愛を拒絶されるのを」と糾弾されて言い返す「違う!」なのですが、そういう「抵抗」がここまで物語を推し進めているのだな、と改めて思います。そしてフランツに「違う」という台詞はない。内心では母ゾフィーに対しても妻エリザベートに対しても息子ルドルフに対しても思ったことがあったでしょう、でも彼は口には出さなかった、ただ黙々とがんばった人なのでしょう。そしてルキーニは裁判官には抗弁するけれど、そもそもそういうポジションにはいない。そこが肝なんだろうなあ、と思うのです。彼は抗うことなくただ漂っている、まさに浮世離れして見せる必要があるのでしょうからね。そういう独特な存在感が出てくると、より深くおもしろくなるんじゃないのかな。愛ちゃん、期待しています。
あとはもう、ルドルフ語りですね。というかこうなるとホントは東京もCBAの順で観たかった。役者の負担は別にして。
だって絶対りくくんもずんちゃんも芝居が変わってくると思うんですよ、他のルドルフを見て。それを見てのさらなるあきルド、が見たかった。まあこの中では意外にそういうことで芝居が変わる人ではないのではないかしらん、と思わなくもないのだけれど。
何度か書きましたが役替わりなんてそのうちの最下級生を上げるために劇団が仕組むものに決まっていて、大劇場初日と東京千秋楽とDVD収録をCパターンにするってのもそういうことなんですよ。でもどうせブルーレイを出すんなら、どんなに高額になろうとも全パターンをフルで収録してほしいです。受注清算にしたっていいんだからさ。周りのみんなの演技はみんな違うんだから、ツギハギで編集するのは捏造に近い。せめてルドルフ登場場面はすべて収録して、革命家たちも抑えてほしいです。三人の生徒はルドルフ役だけを役替わりしているのではないのですから、きちんと取り上げないのは不当です。脚本を収録しないなら「ル・サンク」だって写真くらい全パターン抑えてほしかった。だって写真は舞台稽古のものじゃないですか、なら初日前にひととおりやったはずでしょう。
贔屓が絡んでいるから言っている、ということもありますが、仮にも均等に上演したんだから(例えば『ローマの休日』のAB役替わりは公演回数の差から扱いに軽重があるとされても仕方ないと個人的には思います)公平に扱ってくれよ、とは言いたいです。もちろんそもそもは役替わりに入れていただけただけでありがたいんですよ、それは発表時の日記でも書きました。ずんそらもえこでやってたっておかしかなかったと思ってましたから、もう大臣とかなのかなって思ってましたからね。でもやるならちゃんとやってくれよ、と言いたいってことです。だって生徒は本当にがんばってやっていて、かつちゃんとしていたんですから。みんな好評だったんですから。絶対に大変だったはずなのに、三人ともあんなに痩せちゃったのに。報いてあげてほしいです。
三者三様のルドルフ、本当におもしろかったなあ。どうしても中の人のイメージを重ねて見てしまうところがありますが、役者の持ち味とか個性ってそういうものだとも思うし。思い込みもあるかもしれないけれど、新たな発見もあって楽しかったです。
以下、本当に私個人の感想となりますが、ずんちゃんルドルフは最初に観たせいもあって本当に正統派だったかなと思います。あと初日から本当に完成されていて、技術的にしっかり確立されていました。遅れて来た宙95期だけれど、私は大事にじっくりド路線で育てられてきたスターだと思っていて、すごく買っているんですよね。
そういう点を評価しているからか、なんかすごく「急進派」に見えました(^^)。確信犯的というか、新興勢力というか、ホントにがっつりパパとケンカしている感じというか。鞭の傷跡のことをガチで恨んでいると思う。思春期的な青さもあるんだけれど、フランツがホントに手を焼いていて苦々しく思っていそうな。
上手く転がったら革命も独立も成功したかもしれないんだけどねー、組んだ相手がロイヤルすぎたかなーというか(^^;)。ジュラとツェップスは固定だから別にして、あきりくじゃホラやっぱ甘いお酒で女子会してそうじゃないですか。
でもずんルドはあきエルマーに理想の父を見ていましたよね、だから組んじゃったんだよね。ごめんね?(私が謝っても)
ママに対しても、同期だからというのもあるけれど、すごく頼っていたとか傾倒していた、心酔していたという重さはあまり感じられなくて、でも最後の砦が崩れてバッキリ打ち倒された…という感じがしました。あと上着脱ぐのが上手い(笑)、素晴らしい。
りくルドルフは本当に甘くて優しかったよね、いい子だったよね。この息子に対しては、フランツは自分ががんばって振り切ってきた弱さや優しさを彼の中に見るようで、歯がゆかったり幻滅したりしていたんじゃないかな、と思いました。本当は似ているのにね、この父子こそが鏡なのにね。
普段のりくの、本当によく気を遣ういい子なところを知っているだけに、そんなりくルドが小さいころ放任でかまってもらえなかったなんてそりゃ泣いちゃうよ寂しがり屋さんになっちゃうよ、って感じでした。お勉強も本当は好きじゃないし、政治のことも両親の関心を買う手段にしか過ぎなかったようなところがあるかもしれないけれど、とにかく一生懸命だったんだよ、と守ってあげたくなるようなルドルフでした。トートからしたらぺろりと一口丸のみ、みたいな。
まどかの子ルドもこのころから本当に歌い方、芝居を変えているなという印象でした。
そしてあきルドはねえ…どうしてあんなふうに育っちゃったんでしょうねえ…
例えば初めて台詞を言う場面、のっけから「闇が広がる」の前奏が流れているんですよね。普通は討論場面がもともとあって、途中どこかで空気が変わる演出として音楽が入ってくるじゃないですか。つまりこのくだりには描かれていないだけで前半パートがあるのであって、つまりこの父子はずっとずっとこういう平行線の議論を重ねてきたのだ、というのが初めてわかった気がしたのでした。この場面はトートとの「闇広」との前振りなんかではなくて、さんざんされてきた父子の対立場面の最後の一押しだったのだ、ということです。
つまりそれくらい、あきルドは皇太子として、次期国王としてきちんと立っているように見えました。優秀で聡明で賢明で堅実で、国家と国民と一族と世界を見ていて、みんなによかれと思っていろいろ考えていていろいろ提案しているのに、父の理解が得られない。それでがっくり膝を突いてしまう…(どうでもいいけどそのあと顔を覆いながら仰向く必要以上に色っぽい振りってなんなんでしょうね? 怒りすら湧いたわ…!(笑))
ものすごく優秀で、フランツもものすごく期待していたんじゃないかなあ。自分の方が古いのだろうか、間違っているのだろうかと怯えることがあるくらいだったんじゃないのかなあ。最後の最後の最後まで、ああは言っても自分の跡継ぎはルドルフしかないと思っていただろうし、まさか自死を選ぶとは…と驚愕し動揺したと思う。葬儀での悲嘆が一番激しかった気がします。
愛情をかけられずに育ったわりには曲がらずまっすぐに育ったのに、やっぱり満たされないうつろな部分はあって、そこにトートはするりと入ってきちゃったんですよね。ルドルフを翻弄するトートのまあ楽しそうなことと言ったら!
そしてママ。ママのことも敬愛していて尊敬していて、本当にその帰りを待っていて。話せばわかるはずだと思っていて、信じていて。でもシシィは本当にいろいろ疲れていたんだろうなあ、だからこそ家に帰ってきたんだろうし、そんな精神状態では息子のそんな話はとても聞けなくて、つい甘えて逃げたんだろうなあ。また今度、ゆっくりね、って。そういうふうに、責められないなと思えたシシィはなかなかいなかったかもしれません。
でもそれでルドルフは折れてしまった。というか、それでもまだ彼は立ちあがれたかもしれなかったのに、トートが待てなかったんですよね。そりゃ美味しそうな獲物でしたでしょうよ、ゆっくりねちねちしゃぶりつくされて小さくなっちゃったからあんな小さな棺に収まるようになっちゃったんだよ!(違います)ああ悲しい、ああせつない、ああ色っぽい…
普段はホントにほややんとしている人なのになあ、なんであんな濃く深く激しい芝居ができるんだろうなあ。上着の脱ぎ方は東京でがんばってもらうことにして(オイ)、ますますの濃さ、深み、激しさを期待しています。ホント、よくある、ちょっと病的な優男に作ってくるのかなとか思っていたからさー。強くて意外だったなあ、そして惚れ直しました。私はファンイチ贔屓を信じてない自信があります…(笑)それで言ったら中の人が心配すぎてまだ泣けていませんから! 『激情』とか二度目から号泣だったけれど(初日はやはりいろいろ心配で、あといろいろおもしろすぎて泣くどころではなかった)、やはり愛のあり方が違うんだよなあ。重くてめんどくさくてすみません。ホントは役と物語に没頭して泣きたい派なんですけれどね。でもそれが私の愛なんだ!
それで思い出したけれど、病院場面でシシィとヴィンディッシュが扇を交換する演出が復活したのは素晴らしいと思うんだけれど、トートがエルマーから取り上げた銃をルドルフに渡す、という演出は何故なくしちゃったのかしらん? はっ、なーこたんにお手紙書いたら東京から直るかな? 私はあれはとてもいい皮肉というか、トートっぽい行動だなと思うんですよね。かつて母を狙った銃口を自分に向けることになる息子、というのも泣かせると思うのです。泣いてないんだけど。復活希望!
というワケで、東京でのますますのブラッシュアップを期待しています!