駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『風立ちぬ』について、少しだけ。

2013年08月20日 | 日記
 最初に言いますと、私は特にジブリ・フリーク、宮崎駿信者ではありません。ひととおりは見ているかとは思いますが、映画館では見ていない、というものも多いです。
 なんといっても大好きなのは『ナウシカ』、次いで『カリ城』(これがジブリ映画でないことを承知であえて挙げます)。『ラピュタ』は何故かそんなに…で、『トトロ』『ポニョ』は全然わからず、『もののけ』は話が破綻していると思っています。『千千』『ハウル』はまあ好きかな、程度。あと『紅』はなんとなく好き。そして『魔女宅』をなんと見たことがありません。
 それくらいでしたっけ?
 『風立ちぬ』についても、まあ話題に乗り遅れないためにも見ておくか…程度でした。ただ、公開直後から何故か賛否両論だという評判は聞いていて、でも何がどう賛でどう否なのかはあまり聞こえてこず、どういうことかいな、とは思っていました。
 ちなみに中身については零戦の設計者の話、だとは聞いていて、ああ、飛行機大好きだもんね、と思った、程度の認識で映画館に行きました。

 で。
 私は全然楽しく見ました。普通に良く出来た映画だと思いました。
 好みというか、好き嫌いはあるかもしれないけれど、何かが明らかに間違っているとかおかしいとかいうことはない作品で、何をそんなに論じることがあるのかよくわからない…という気がしました。
 確かに、ヤマもオチもないかもしれない。けれど人生ってそういうものですよね? これは実在の人間を主人公にしたある種の評伝なのだろうから、当然の構成なのでは?と思うのですが。
 ファンタジーが好き、物語が好きという人には不評かもしれないけれど、事前に実在の人間が主人公の話であることはある程度宣伝などでわかっていたんだし、だったら架空の怪獣が出て来たりチャンバラするような話にはなりそうにないって想像つくじゃないですか。見当違いのものを期待して行って、裏切られたって騒ぐのはおかしくない?
 私だって特に前半、いいんだけどところでこれってなんの話だっけ?って思ったりはしましたよ。なかなか本題が始まらない感じがしたというか、ストーリーがつかめないと思えたというか。でもやがて、ああこれはそういうスタイルの作品ではないのだな、と気づいて、身を委ねて見ることにしてしまいました。結果的にまったく退屈しなかったし、ひとつの人生のおもしろい疑似体験ができた気がして、私は満足な気持ちで映画鑑賞を終えたのですよ。
 で、これの何がどう問題なの? 嫌いだと言っている人は何がどうそんなに気に入らないの?と、純粋に不思議でした。
 まあ、のちに禁煙学会がつけたケチには笑いましたけど。

 ジブリ映画のいいところは、なんと言ってもあの独特の柔らかな絵柄だと思います。ザッツ・アニメーション。CGとか3Dとか別に万人が求めてないし、そんなものでは表せない何かがコマ・アニメなら表現できるんですからね。
 たとえば二郎の夢の表現もそのひとつ。現実と地続きで夢がつながっている感じ、すごくリアルだと思いました。その中で、現実では起きないことが夢では起きる。その妙味。
 夢の中の飛行機は現実の飛行機ともまた少し違う。しかし監督が、ひいては二郎がこだわる部分は同じです。エンジンがかかって、プロペラが回り出し、溜まった力が機体をふわりと浮かせて、そうしたら翼が風をつかんで滑空を始める、あの感じ。何度見せられても、そこまで飛行機が好きでなくても、ぞくぞくわくわくさせられるあの感じを、この映画は何度でも、執拗にと言っていいくらいに描きます。その稚気がまた愛しい。
 そしてたとえば日常生活のゆかしさ、豊かさ。いくらでも省略してしまえるところを丁寧に描いていて、また美しい。幼い妹が庭から縁側をよじ登る感じ、学校の先生に対する主人公の美しい言葉遣い、のどかで浮世離れした避暑地の空気…素晴らしい。
 さらに、震災や戦争との距離の取り方も良かった。
 私はこの映画が震災を取り上げることはことはまったく知らないで見たので、最初これが心象風景なのかはたまた夢なのかそれともここから架空の物語になるのか、まったくわからず混乱しました。すぐにこれがおそらくは関東大震災のことなのだろうと思いはしましたが、教養や歴史的な素養がないもので、年号的にそれで合っているのかどうか確信が持てず、作中のキャラクターたちもなかなか確定できる言葉を発しないので、不安な思いをさせられました。
 でもそれがリアルだと思う。渦中の人はあとから外の人間が付けた震災の名前のことなどいちいち語らないし、目の前の事態をやりくりするのに一生懸命で、大局的な物思いなどずっとあとまで、もしかしたらあとになっても、しないものだからです。
 東日本大震災からまだ三年しかたたず、ここでの公開にもいろいろな意見もあったかもしれませんが、こういう描き方でちょうど良かったのではないでしょうか。その、ことさらでない感じが。日常的な感じが。起きてしまったものに対して粛々と対応する様子が。そこに必要以上の意味を持たせない感じが。
 同様に、戦争の描き方についても私は感動しました。参院選に合わせて監督が改憲反対を唱えていたのは知っていたので、何かしらのメッセージが込められているのかと思っていたのですが、むしろきれいさっぱり何もなかった。
 監督は、二郎は、飛行機が好きです。飛行機が好き、美しいと思う、だから作る、描く。飛行機が兵器として悪用されてしまうかもしれないことについては理解はしている、しかし深く考えたくない、考えられない、それは自分の仕事ではない。兵器となった飛行機がどこの国相手のどんな戦争に使役されるのかに至っては把握すらしていない。
 無責任かもしれません。しかしすごくリアルだと感じました。
 兵器として利用されることを良しとせず、開発をやめた人もいるでしょう。逆に、兵器としての飛行機が起こした罪過をすべて我がこととして負おうとした人もいるでしょう。でも二郎はそうではなかった。監督は二郎を、そういうふうな人間に描いた。そういう人間もいたと思えるからでしょうし、自身の飛行機へのスタンスがそうだからでしょう。
 兵器を好み憧れる男の子は多い。しかしそれは戦争をしたがることとはまったくイコールではない。道具そのものに罪はない。使い方が問題なだけだ…
 そんなことを、言い訳がましくもなく、ただ淡々と描いて見せていました。それを説明不足と感じる人も、確かにいるかもしれませんが…
 だから二郎が特攻に引っ張られるシーンもないし、戦闘の場面もないし、どことどんな戦争がなされたのかの描写はいっさいありません。ただ二郎が作った飛行機が一機も還ってこなかったことだけが語られる…
 私には、それで十分に思えました。

 そして私が何より感心したことは、宮崎作品なのに、ジブリ映画なのに、恋愛がきちんと描かれていたことでした。もっと言えば性愛すらあった。そんな場面はないけれど、確かにそこに香っていた。これは画期的なことに私には思えました。
 この件について、ヒロインがかわいそうだとか、理想的すぎるとか、主人公の夢の犠牲になるヒロイン像が嫌だとか、隷属的なヒロインを描くこの作品が嫌いだとかいう意見も特に女性から出ることが多いようですが、私はピンときません。
 ちなみに私は別に二郎も菜穂子も特に好きではない。親近感を持つとか、特に理想的な生き方をしているとか理想的な男性像だとか女性像だとかカップル像だなんてことはまったく思わない。でも、こういう人っているだろうな、と思えたし、彼らなりに普通に生きていたと思います。だからなんの不満もないのですよ。
 二郎が病身の妻をいとわず自分の仕事ばかりにかまけて嫌とか、菜穂子が自分の人生を犠牲にして夫の仕事にすべてを仮託しちゃって嫌とか、まったく思わなかったなあ。だって、そういうことじゃなくない?
 あの人たちは、ただ恋に落ちただけのことでしょう。で、結婚したいと思った。結婚とは生活を共にすることです。だから離れて療養することもなかったし、仕事があれば会社に泊まりこみもするし家に持ち帰ってでもするでしょう。お互いにヘンに気を使わず、とにかく一緒にいる、いたい、好きだから。ただ単純にそういうことなんじゃないの? それが夫婦、家族ってものじゃないの?
 片手は妻の手を握って、もう片手だけで仕事して。そこで煙草を吸う二郎。「吸うのか!」と私も思いましたよ。そういう思いをさせる間をとった演出でしたからね。でも吸うでしょう、だから何? 結核患者がそばにいるのにひどいって? 赤の他人の結核患者ならもちろん遠慮したでしょうよ、でもふたりは夫婦だからね、家族だからいいんです。お互いがいいと言ったらいいんです。それにあの一服がどれほど菜穂子の寿命を縮めたというのか? あれがあろあとなかろうと菜穂子の寿命にそんなに違いはなかったろうし、だとしたら好きな男のそばにいられた方が幸せなのに決まっているのでは?
 だいたいしょっちゅうキスしてるんだもん、もう同じだよ。移ることも悪くなることも厭わない一蓮托生感、それが夫婦ってものでしょう。
 愛とエゴイズムが剥き出しになった、とてもいい場面だと思いました。結婚すること、生活すること、働くこと、愛することのきれいごとでない美しさがあふれていると私は思いました。

 結婚式の場面もいいなあ、と思ったんですよね。なし崩しに夫婦になってしまうのではなく、やはり儀式というのは必要なのだな、と思えました。でないと男は女を大事にしない、ということもあるし、神聖な儀式を経て自分のものにしたからこそ家族となりひとつになれる、わがままになれる、ということなのかもしれない、とか考えました。年々結婚式がめんどくさくなって、結婚するにしても届け出すだけでいいんじゃね?とか思っていた私でしたが、やはり式は挙げてもらおう、とか思っちゃいましたよ。脱線してすみません。
 あと、婚前交渉感ね(^^;)。いやこの解釈が正しいのか知りませんが。史実がどうか知りませんが。この時代的にどうか知りませんが。
 でも電報もらって菜穂子の実家の離れの病室に二郎が駆け付けたとき、それ以前にしていなかったら「あなた」なんて呼ばないよね? しかもキスした。このちゃんと睦み合っている感は宮崎作品では画期的なことではなかろうか…ただのロマンチック・ラブ、観念的なプラトニック・ラブ、アイコンとしての、女神としての少女愛とかじゃないもん。
 新婚初夜の「来て」「だっておまえ…」だって、初めてのときの会話じゃないもんね。いやあシビれたわあ。にやにやしたわあ。
 あたりまえのことなんだけれどね。そういう、普通の生きる営みを普通に描いた、ウェルメイドな作品なんじゃないの?と私は思うのでした。

 菜穂子は二郎の生き方の犠牲になんてなっていないし、二郎の夢に自分の夢をのせたりもしていないと思う。好きだからそばにいただけで、病気だから寝ていただけで、病気が治ったらまた自分のために好きな絵を描くつもりだったと思う。
 二郎の仕事がある程度ケリがついて、そして自分の命がもうあとがないとわかったから、死体を見せない猫のように夫のもとを去っただけで、それだって彼女の選択で彼女の意思じゃない。私には彼女がかわいそうだなんてとても思えませんでした。そんな物言いは彼女に対する侮辱だと思う。
 むしろ感動したのは、飛行実験中の二郎が菜穂子の死を感じたことですよ。実験に夢中になっていて気づきもしなかった、という演出ではなく、彼に妻の死を気づかせた。その演出に感動しました。

 そこからの流れるような時間の飛び方が美しかった。
 そして「生きて」「ありがとう」は私には蛇足に感じました。今さら言われることじゃないんじゃないかなあ、と思ってしまった、生きることも、お礼も。
 風立ちぬ、いざ生きめやも。そのフレーズしか知りません。『風立ちぬ』なんて読んだことはありません。そんな世代じゃない。
 でも風が吹いている間は生きなければならないのです。エントロピー増大の法則というか、宇宙は常に動いていて熱量は移動し、風は常に起きている。人は生きるために生まれるのであり、生きている以上生き続けなければならないのです。たとえすべての生が死に向かうだけのものだとしても。
 私はずうずうしいのでそんなことは自明のことだと思っているし、誰はばかることなく生きるつもりだし、「生きて」とか「生きねば」とか「生きよう」とか別に誰かから言われる必要性をまったく感じていないのですけれど、でももしかしたらいまどきのお若い人はそうではないのかしら? 言われたいのかし?? 言われないと安心して生きられないのかしら…
 淋しい世の中だなあ。

 でももしかしたらそれは洒落でもないのかもしれない。
 私は生きたければ生きられると思っているし、生存権とか基本的人権とかを生得のものだと思ってきたけれど、今のキナ臭い政権のもとではいつ奪われるかわからないんですものね? 非国民には死を、とかいう世の中がまさか生きているうちに繰り返されようとは思いもよりませんでしたが、そういう方向にこの国の政治は向かっているってことですもんね?
 そういえば私は、投票率を上げるためには、投票に行った人しかジブリ映画を見られない、とかにすればみんな行くんじゃないかなあ…とかくだらないことを考えたりもしました。いまや全国民的な出来事ってなかないから。AKB総選挙も一部の人のものだし、オリンピックは私は東京招致に反対だし。選挙に行かないとその週のジャンプが買えない、とかも効果あると思うけどねー。
 選挙に行かないと国がヘンになってアニメなんか楽しめなくなる、ってのはけっこう冗談じゃないんだけれどなあ…
 私はこの映画は、クリエイターの罪業を描いたものとしても、純愛を描いたものとしても見ることができるけれど、それ以上にやはりなお大きく「戦争」を扱ったものなのではないかとも思うのです。その描写が一切なくとも。
 戦争が奪う日常の淡々とした美しさを描いた、というか…
 そんなふうに思う、また終戦記念日が巡る夏なのでした。


 




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読売交響楽団サマー・フェスティバル『三大協奏曲』

2013年08月20日 | 観劇記/クラシック・コンサート
 東京芸術劇場、2013年8月16日ソワレ。

 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、ドヴォルザークのチェロ協奏曲、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番。豪華なプログラムですね。
 しかしヴァイオリニストの小林美樹は私にはやや音が流れ気味に聞こえて、ちょっと残念。
 チェロのコンチェルトは初めて見たのですが、ソリストの動きとかがなかなか興味深かったです。そしてやはりチェロの音っていいですよねえ、次はベタにエルガーとか聴きたいです。
 ピアノは…田村響は私はロン・ティボーでも見たかと思いますが…こんなにミス・タッチの多い演奏を初めて聞きました。もちろん正確さがすべてではないけれど、私はヒヤヒヤしてしまってダメだったなあ…

 芸劇のコンサート・ホールは初めてでしたが、とてもよかったです。新国立といい、演劇用とは違う、コンサート用のホールっていいなあ。その二階席のファンになりそうです。

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三谷文楽『其礼成心中』

2013年08月20日 | 観劇記/タイトルさ行
 パルコ劇場、2013年8月15日マチネ。

 舞台は元禄16年の大阪。『曽根崎心中』のヒットで心中のメッカとなった天神の森で繰り広げられる、笑いと涙に溢れた人情物語。
 作・演出/三谷幸喜、作曲/鶴沢清介。2012年初演の再演。全一幕。

 初・文楽でしたがおもしろかった!
 外来語を出すだけで笑いを取るのはずるいと思いましたが、脚本はベタだけどおもしろかったし、やはりお人形でしかできないお芝居・演技というものが確かにあるんだなあと思えたし、普通の古典も観てみたいと思いました。
 で、声とか動きとかのファンになっていくんですよね? すごいなあ。
 でもまずはわかりやすくおもしろい演目を探してみたいと思います。くわしい方いらしたら、ご教示ください!
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宝塚歌劇星組『ロミオとジュリエット』

2013年08月20日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 東京宝塚劇場、7月30日ソワレ、8月6日ソワレ、8日マチネ、13日マチネ。

 初演の感想はこちら。雪組版の感想はこちら。月組版の感想はこちら
 外部版の感想はこちら。来日版の感想はこちら
 他にこちらなど。

 なんといっても楽曲が素晴らしく、舞台としても練り上げられた作品で、堪能しました。
 そしてなんといってもロミオもジュリエットも役変りしない、絶大なカップル感がたまりませんでした。
 それでも…もう仕上がりきっている、出来上がり過ぎている、煮詰まり始めている…とも感じたかな。もちろんこちらがリピーターだからかもしれませんが。宝塚歌劇には未成熟なものがふさわしい、なんていう気もないのですが、それでも。飽きた、とまでは言わないけれど、それでも…という、ぜいたくな感想を持ちました。
 Aパターンを一度しか見られず、Bパターンを三度見ているため、印象がやや違うところもあるかもしれません。

 作品としてはほぼ完成されていてなんのつっこみどころも改善希望点もなく、さしたる変更もなかったと思うので、主にキャストの感想を。

 チエちゃんは、少年っぽいロミオがちゃんとできていたと思います。もともと私の彼女のイメージは「やんちゃな腕白坊主」みたいなものなので(だから今ふと思ったけれど、もっとずっと若い頃に、まったく毒っ気のないただおバカで元気なだけのマーキューシオとか見てみたかったかも)、男っぽいワイルドな役より純朴な青年みたいな役の方が好きなのです。
 明るい声の出し方もよかった。でもやはり「僕は怖い/リプライズ」とかでは、こてんと倒れる痛々しさとかすごく良かったんだけれど、やはり泣きの芝居・歌い方がうるさく感じたのですね。やりすぎている、というか…ううむ、難しいものだなあ。
 ネネちゃんはストレートの鬘がとにかく素晴らしい! そうよこれがジュリエットだと思うわー。歌が上手くなっていたのにも感動しました。誕生日SS席観劇した母はプログラムを見て「ジュリエットの方が大人っぽくてヘン」とのたまいましたが(私はチエちゃんの若者化けに感動した…)、舞台を観たらちゃんと若く見えてご満悦でした。

 ベニーは…まあ私がベニーには辛いというのもありますが…ティボルトは普通だったかな。そしてベンヴォーリオは期待していただけにちょっと残念でした。
 もともと、マーキューシオとかティボルトに向いてそうに思われて実はベンヴォーリオとかを落ち着いてやる方が上手く見えるタイプなのではなかろうか、とか勝手に思っていたのですよ。でも、人のよさそうなベンヴォーリオではあったけれと、なんか立ち位置が不鮮明に見えました。
 ロミオママの手前いい子ぶるくだりがブルギニョン声なのはともかくとして、このベンヴォーリオはロミオより年上なのか同い年なのかとか、どちらが性格的に兄さんっぽいのかとか、普段どんな関係でいるのかとかが、どうにもよくわかりませんでした。その場その場でけっこうおたおたしている感じに見えてしまって…最終的にはこの人が次の大公になってよりよい街を築くのね、なんてとても思えなかった。残念。
 しーらんとみっきぃは健闘していたと思います。どちらのパリスもとてもノーブルで、単なる「気取り屋のまぬけ」でなかったところがよかったと思います。だってあれはロミオの評価だもんね。威圧してくるティボルトに対し怯える一方ではなくなっていて、「なんだコイツ」って顔してみせるところとかもとても良かったです。愛がない、という以外は意外に理想の結婚相手、という正しいキャラクターになっていたと思います。
 マーキューシオは、しーらんは張り切り過ぎに見えたかな。でもみっきぃも上手いなあとは思ったけれどやはり力んでいて歌など上ずり気味なのが惜しかった。これは経験の問題なのかなあ。この先に生かされてくるといいですね。

 そして私はまっかぜーには甘いので…しかし死の衣装はキラキラさせ過ぎだろう! マオくんの死がオーラのないことが良い方に出ていい不気味さが出せていたのと逆で、まっかぜーの死とまこっちゃんの愛はもう饒舌になり過ぎていたと思いました。彼らは人間を支配し操る存在ではない。ただそこに漂う、気配のようなものであるべきだと思うので…
 ティボルトは…健闘していたのではないでしょうか。家長感が素晴らしい、しかしジュリエットにもホントに「ただのお兄ちゃん的存在」としか思われていなかったであろう感も素晴らしい。せつないわあ…歌もだいぶ頑張っていたと思います。
 まさこの大公は…変更加えてもらっていたけどやはりあの歌ではねえ…押し出しは素晴らしいんだけどねえ…
 まこっちゃんは、実はみんなが絶賛し出世作とも言える『めぐ愛2』が私としてはさっぱりだったため、今回のベンヴォーリオで初めて「ああ、上手いんだ」とは思いました。歌唱に危なげがないというのは素晴らしい。しかしこれまたどういうキャラクターなのかさっぱり見えなかったんですよね…ロミオのチエちゃんとは10学年も差があるだし、お兄さん的親友なんて作りはいっそ捨ててしまって、年下だけどしっかり者、みたいに作ってしまってもよかったのではなかろうか…
 というか私はもしかしてトヨコのベンヴォーリオに未だとらわれているのかもしれません。あの、明らかに年上だし外面はしっかりしているんだけどロミオべったりでもしかしたらロミオのことをこっそり愛していたかもしれない、しっかり者のせつないベンヴォーリオ…「決闘」のとき「♪誰が誰を好きになってもいい」にはっとなったあのベンヴォーリオ、あの「どうやって伝えよう」が、忘れられていないのかもしれません。
 ドイちゃんの愛は静謐で美しかった。キャピュレットの男として踊りまくっている時も素敵でした。

 役替わりはそんなところかな?
 これでご卒業のかぁさん、「憎しみ」はややつらそうだったけれど「罪びと」のまろやかな歌い出しはいつも涙腺決壊ポイントでした。
 そうそう、コロちゃんやじゅんこさんは変わらない感じがしたけど、ヒロさんがなんか歌に感心しなかったんですよねー、なんでだろう?
 歌と言えばさやかさんの乳母も歌は酔って歌い上げすぎではないか?と思えてしまったのですが、そのあとのジュリエットとの会話がもう爆泣きものでした。ジュリエットが帰りが遅いと言ってぷんすかするのも家族ゆえの甘えなら、「ありがとうなんて言わないで」も家族ゆえの言葉ですよね。
 のちにロミオを雑巾だと言ってパリスとの結婚を勧めるのも、今回初めて納得できた気がしました。パリスの作りが違っていたこともあるし、この乳母は愚かなわけでも世間ズレしているわけでもお嬢様しか見ていないわけでもなく、でもただ場当たり的なことを言っているだけでもなく、その全部みたいなものなんだな、と、すごく自然にすとんと思えたので…
 しかし初演はピーターでしたか…す、すごいなあ(^^;)。

 あ、ひばりの場面のカーテン、今まで片開きじゃなかったですか? 細かい点ですが、両開きになっていてちょっとイメージが違う、と思ってしまいました。
 あと仮面舞踏会でロミオとジュリエットが初めて出会うところ。パリスから逃げているジュリエットが、先に来ていたマーキューシオたちに手を振るロミオとぶつかって…というのは同じでしたが、そのあと、今まではジュリエットの方がパリスから隠れるためにロミオを無理矢理ダンスの相手に誘っていたと思うのだけれど、今回はロミオの方がジュリエットをダンスに誘っていましたね。これは違うと私は思うなー。それじゃロミオがただのナンパな小僧じゃん。ジュリエットが必要があってロミオを巻き込んで、そこから…としてほしかったわあ。

 フィナーレは圧巻でした。なんといっても振付が良いよね! てか小池先生がいつもやりたがるヤングスターのカジュアルなヒップホップ・ダンス!とかがなくて心底ほっとした。
 いつも私は一本立ての時は本編がメインなんだしフィナーレはパレード前のおまけ、くらいに思っているのですが(もともとショーよりお芝居、物語の方が好きなので)、今回は珍しく「短い! もっと見たい!!」と思いました。それくらい気持ち良かった。
 ビギナー向け演目ということで布教がてら初・宝塚な知人を何度か同伴したので、「ヘンなホストクラブみたいとかショーパブみたいとか思われちゃうだろうか、イヤそこも魅力のひとつなのだがしかし、もっとノーブルなものの方がウケが良かっただろうか」などとヒヤヒヤした、というのもありますが、もう一場面、空気のちがうものがあっても良かったかもしれません。でも尺がないよね仕方ない。何よりデュエダンが素敵だったんで満足です。
 でも、頭の小さいベニーや背が高いまっかぜーと並ぶとチエちゃんはそろそろ旧世代に見えると私は思う。円熟の五年目突入、ぼちぼちではありますな…

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